「死にたい」と思うことについて。

よく頭に「死にたい」と浮かぶ人は多いと思う。
統合失調症にかかった人の10%は自殺すると何かで読んだ覚えがある。

私もわりと簡単に「死にたい」と思う。
うつ病の人には簡単に思うなと言われそうだけれども。

思い起こせば3歳の時、保育園でいじめ抜かれて死にたくてしょうがない時期があったりするくらいに年季が入っている。当時は保育園に通うのが苦痛でならなかった。朝、お迎えのバスに乗せられるのにおお泣きして抵抗したものだ。保育園では年上の園児に「あめ玉あげる」「食べろ」と口の中に砂利を詰め込まれたり、噛み癖のある園児に血が出るまで腕をかまれたりしていた。そんなところから逃げるために人のいないところを探しては隠れるようにすごしていた。

なんで自分はここにこんなつらい思いをして、居なければならないのだろう?
ずっと思っていた。「死んでしまえば楽になるのに」本当に当時そんなことを考えていた。

小学生に上がってからは厳しい担任にあたりつづけた。
元来気が弱いので学級委員などの役を押し付けられることが非常に多く、クラスで問題が起こるたびに私が司会で話し合いが持たれた。

クラスで話し合った結果を担任に持って行くわけだが、簡単に承認が降りない。何度もクラスと職員室を往復して問題の解決法やらこれからのクラスのルールやらを決めてはひっくり返され教師に罵倒され、クラスでは無能扱いされるという繰り返しを続けていた。

「死んだ方が楽だ」とやっぱり思っていた。

小学校の6年生の時とうとうカラダに変調をきたした。
「起立性調節障害」立ち上がると血圧が下がってふらっとくる症状だ。
朝が大変苦しいことになる。起きられない。

これは今でも続いている。

でも、この病気にかかったことはとてつもなくうれしかった。
病院へ行く数ヶ月に1回は学校を堂々と休めるのだ。
通っていたのは静岡のこども病院という専門の病院だ。
神経科で北条先生というやさしい先生が担当してくれたのを覚えている。

中学、高校ではさらにこじれてくるのだけれど、それはまたの機会に。
とにかくいつも「死にたい」ので「死にたい」ことに慣れてしまっている。

で、冷静に考えるのだけれど、「死にたい」ということは何を意味しているのかということだ。
「死ぬ」ということはどういうことか?
この世で生きている人の中には死んだことのある人はいない。
せいぜい「臨死体験」どまりだ。それもかなり怪しげな体験に思えるけど。

「死ぬ」ということがどういうことなのか「自分のこと」として「実感をもって」語れる人はいないのだ。
「死にそう」なことについてや「死ぬかと思った」ことなどについて語り、命の尊さを伝えようとする人がたくさんいる。それはいいことなのかどうか私には分からない。だって「死」が何なのか分からないのに「死」について語っているからだ。

身近な人の死を見て、生と死について考えることはある。
私は中学校の3年の時に友人が癌で亡くなっている。
高校生の時にも心臓病で友人を亡くしている。
大学受験3日前に同居の祖母が亡くなったときは大変だった。
悲しいというのも分かるし、時間がそれを癒すというのもわかってきた。

「他人の死」については語ることができる。
でも、「自分の死」については語りようが無い。
死ぬとどうなるか?・・・死んでみなくちゃ分からない。

それなのに「死にたい」といつも思うのはなぜか?

とりあえず、大きな悩みがあっても「死にたい」と思うことで思考を止めることができる効果があると思う。分からないものを考えることは出来ないからだ。「死にたい」と思うひとの思考はそこで止まる。

死後の世界や、生まれ変わりを信じるのは勝手だが、それは死ぬことを正面から見ていないのではないかと思う。それらは自分自身で確かめたものでもなんでもないからだ。

「死にたい」という願望は絶壁として自分の前にある。
誰にも理解できない壁だ。

だからこそ「死にたい」と思うのではないかと思う。
思考をそこで止めるために。

で、実際に自殺してしまう人がいることを考えると安易には書けないのだけど・・・。
どうなるかわからないことに賭けてしまうのが人間の強みでもあり弱さなのだろうと思う。

「死にたい」「死なないで」「あなたが死ぬと悲しい」etc.
どれも「死」がほんとうはなんなのか分からないままで話が進んでゆく。

誰にも分からないことを分かったように言うのはどこかに歪が来る。
・・・と、いつも「死にたい」私は思う。

死にたくても死ねないからいろんなことをする。
「死」にせき止められたエネルギーで何らかをなしてゆく。

「死にたい」と思うことで思考はかなりの場合ストップするし、節約される。
それはとても苦しいけれど、考えたって苦しいのは同じだ。
考えるだけのエネルギーが無い時は「死にたい」と思いつつじっとしている。

なんかの拍子で「死にたい」と思っていたのを忘れると動き出せるようになる。
なんだかよく分からないものがなんらかの作用をしているらしい。

 
あと、「死にたい」といつも思っていても「殺すぞ」と言われるとなにか別の仕組みが働く。
それは「死にたい」と言う考えが実はなんらかの前向きなものを奥に隠しているからだと思う。死にたくても殺されたくは無いのだ。

あと、「病気で余命1ヶ月」とか宣告されたらその場合も「死にたい」は消えるだろう。そんな状態になったら逆に「いっそ殺してくれ」くらいのレベルの苦しみが待っているのだろうけれども。その場合の「死にたい」はどんなものになるのだろうか。経験者に語ってもらうには「死にたい」と苦しんでる人にインタビューを敢行するか、やっぱり墓の中から出て来てもらうしかないか?

そんなことを考えると、「死にたい」と思うことは馬鹿な考えではないと言うことだと思う。

私も余命あと幾日かわからないけれど、たぶんずっと「死にたい」と苦しみながら生きていくのだと思う。

統合失調症はどうせ正常な思考ができないのだからそのくらいひねくれていないと生きていくのがつらいという事でもある。うれしいことや楽しいこともあるけれど、そのためには何倍も苦しまなければならない。

「死んで楽になる」のが分かっていればどんなに楽なことか・・・。
 
 
えーと、国家試験を前に苦しんでいる私が、苦し紛れの気晴らしに書いただけですから、関係者はあまり心配しないように。「死にたい」と思いつつもう何十年も生きてきているのだから、なんかの拍子で「まだ死にたくない!」なんてことを言い出してパニックに陥ったりした時のほうがずっと危険なんだと思うので、そこらへんは御理解いただきたい。

ただ、陰性症状がらみできついのはたしかだけど。

統合失調症が原因で人を殺すような時って、「相手を殺さないと自分が殺される」とか思うような時(妄想で)だと思うので、わたしが「死にたい」と言っているうちは「安全」なんだと考えてもいいんじゃないかと思います。


またなんか思いついたら追加します。(2009/01/12)
少し書き足しました(2009/01/13)

One thought on “「死にたい」と思うことについて。

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