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場を痩せさせないために

文章には、音がある。
読み手の中で鳴る、小さな音だ。

静かなエッセイのあとに、短い挨拶が置かれる。
「おはよう」とか、「いいですね」とか。
それ自体は悪くない。むしろ優しい。

けれど、挨拶のあとに続く言葉が、いつも同じ方向へ流れることがある。
本文の話題に触れているようで触れていない。
問いに答えているようで、問いを持ち去ってしまう。
そして、読んだ人の頭の中に、説明しづらい疲れだけが残る。

ここでは、コメント欄を荒らすための誰かを責めたいわけではない。
ただ、「議論にならない型」が何度も繰り返されると、文章の場は少しずつ痩せていく。
そのことを書いておきたい。

「結果が良ければそれでいい」
もちろん、それが真になる場面もある。

ただ、その一文が置かれた瞬間、本文が扱っていたもの――
プロセス、仕組み、検証、再発防止、契約、評価指標――
そういう“地味だけど大事なもの”が、ふっと消える。

結果論は、便利だ。
便利すぎて、たいていの問いを黙らせてしまう。

「権限がない人が言うべきではない」
これも、現場のリアルとして理解できる。

でも、その言葉が続くと、場はこうなる。
問いを立てる人が黙り、
数字を集める人が黙り、
改善案を置く人が黙り、
最後には、誰も書かなくなる。

権限は大事だ。
ただ、権限の話だけが前に出ると、思考は止まり、議論は終わる。
止まった議論は、また同じ問題を繰り返す。

「当事者は分かってるけどできないんだ」
これも真実であることが多い。

けれど、その真実は、使い方によっては霧になる。
霧は、傷を見えなくする。
見えない傷は、手当てが遅れる。

当事者のもどかしさを語るなら、
次の一歩も一緒に置いてほしい。
「だから、まずこれをやる」
「この条件なら、ここまでならできる」
霧の中に、道標を一本立てるように。

本や旅や流行や、昨日見たニュース。
話が広がるのは楽しい。

ただ、コメント欄は「舞台」になりやすい。
本文から少し逸れるだけなら問題はない。
でも、逸れ続けると、いつの間にか主役が入れ替わる。

文章の場は、書いた人のものでも、コメントした人のものでもない。
読んで持ち帰る人のものだ。
雑談が主題を覆うと、持ち帰るものが減っていく。

「頭が悪い」「笑いのツボ」
強い言葉は、短く刺さる。
刺さったあとに残るのは、思考ではなく、棘だ。

棘は、文章の場を「正しさの勝負」に変える。
勝負になると、長引く。
長引くと、読む人が減る。
減ったところに、強い言葉だけが残る。

だから私は、コメント欄を「勝負の場」にしたくない。
拍手も罵声も、どちらも音量が大きすぎる。文章の余韻を押しつぶしてしまう。

欲しいのは、もう少し小さな音だ。
本文のどこか一行に指を置いて、「私はこう読んだ」と言える音。
反対なら、反対の理由の隣に、せめて一つの代案を置く音。
その音は派手ではないけれど、読む人の中で長く残る。

短い挨拶は温かい。
けれど、挨拶だけで場は育たない。
結果論だけでは、検証が残らない。
権限論だけでは、工夫が生まれない。
当事者論だけでは、道が見えない。
雑談だけでは、主題が薄まる。
人格の棘だけでは、誰も持ち帰れない。

文章の場は、だれかを言い負かすためにあるのではなく、
読んだ人が明日を少しだけ良くするためにある。
だから私は、ここに残る言葉の形を整える。
必要なら、言葉の数を減らす。
反応が増える仕組みではなく、理解が深まる仕組みを選ぶ。

走る足音が消えたあとに、遅れて聞こえる声がある。
「助かった」という、小さな声だ。
私は、その声が聞こえる場所を、残しておきたい。

あさ

山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。

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  • 深い思考と優しさが響く言葉ですね。場を大切にする姿勢に共感します。どうか無理せず、ご自愛ください。

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Published by
あさ

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