川辺に、小さな茶屋がある。
旅人が一服して、向こう岸へ渡る前に息を整える場所だ。ここでは、湯気の匂いより先に、言葉の温度が伝わる。主人は、それが気に入っていた。
茶屋には決まりが少ない。席も自由、出入りも自由。
ただ一つだけ、暗黙の作法がある。——誰かが置いた湯呑みのそばに、自分の湯呑みを置く。つまり、先に置かれた話の近くで話す。遠くの卓に向かって叫ばない。これだけだ。
ある日から、茶屋の空気が少し変わった。
朝いちばんに入ってくる客がいる。愛想はいいし、元気もある。戸を開けるなり「おはよう」と声を張り、景気づけに太鼓でも叩くように、座中へ向けて大きな合図を投げる。
悪いことではない。むしろ、その声に救われる日もあるだろう。
ただ、その客はいつも、湯呑みの近くに湯呑みを置かない。
主人が差し出した茶をひと口飲むより先に、荷車を引き込むのだ。荷車の中身は、旅で見た風景、聞いた噂、遠くの町の出来事、世の中への感想。話は賑やかに広がり、座は一瞬盛り上がる。けれど、湯気の匂いは薄くなる。茶を味わう間が消える。
次に困ったのは、煙のような客だった。
誰かが湯呑みを見て「この味は何だろう」と首を傾げると、煙の客はさらりと言う。
「味がよければ、それでいい」
「湯を注ぐ権利がないなら、黙るべきだ」
「注いだ人は分かってる」
その言葉は、たしかに場を静める。議論も止まる。けれど同時に、香りの正体を探る手も止まる。湯呑みは冷め、次の客は席につきにくくなる。
さらに、ときどき火花を散らす客も来た。
笑いながら、軽い冗談のつもりで卓を叩く。小さな棘が混じることもある。火花は目を引く。けれど、火花を嫌う人は黙って店を出る。残るのは、火花に強い人だけ。いつの間にか、茶屋の音は湯気ではなく、乾いた拍手に寄っていく。
主人は、誰も責めたくなかった。
太鼓の客にも、煙の客にも、火花の客にも、事情がある。元気で救われる日もある。話したい夜もある。誰かに気づいてほしい朝もある。だから、張り紙で叱るのは違うと思った。
そこで主人は、看板をひとつだけ掛け替えた。
大きくもなく、小さくもない字で、こう書いた。
「荷車は入口に。湯呑みは湯呑みのそばへ。」
荷車を持ち込むな、とは書かなかった。
ただ、先に茶をひと口飲んでからでも遅くない、と匂わせた。
太鼓を叩くな、とも書かなかった。
ただ、太鼓のあとに湯気が残るように、音量を少し下げられないか、と問いかけた。
火花を禁じもしなかった。
ただ、火花が湯気を消すことがある、とだけ示した。
不思議なことに、看板を見て立ち止まる客が増えた。
「この湯、どこが香る?」
「私はこう感じた」
「もし直すなら、ここからかな」
そんな小さな声が、湯気の上に乗るようになった。
主人は今日も茶を淹れる。
川の音は変わらない。けれど、よく耳を澄ますと、湯呑みの縁が触れる小さな音がする。
それが聞こえるうちは、この茶屋は、まだ茶屋でいられる。