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くるい きちがい考

PSW実習で指導者に「普通」と言う言葉をうっかり使ったら、「普通」ってなんだと突っ込まれました。暮らしていくのにさしさわりのないこと…位しか思いつかなかったのだけど、もっとよく考えろとのこと。暮らしにさしさわりがないってどういうことなのか?

学校のメーリングリストで他の方にどう思うか質問してみました。
そこで勧められたのがこの本。

じつは何年も前に読んで、枕元にいつも置いてある本のうちの一冊です。
「クルッテイル」のは個人ではなくて周囲の社会かも…。

普通に暮らすと言うのは狂った社会に自分を合わせて過ごすことなのか?
精神障害を負って、妄想なんかを抱えて苦しみながら社会にあわせる?
大変な事です。個人を社会に合わせるのも、社会を変革するのも。
 
 

実習指導者は「社会」というのを「クライエントの周囲の人たち」に限る事で切り抜ける事ができると教えてくれました。普段、マスコミででっかい問題が語られてるのを見て、社会全体の考え方を変えなくちゃいけないような気分になったり(障害者の権利を求めたり、偏見をなくそうとしたり)することもたまにあるのだけど、それは無理だし(いや、無理と言っちゃいかん。努力は必要だし)、逆に危険な考えでもある。

でも、困っている個人の周りで関わる人たちだけを少し変えることならできるかもしれない。(それでも難しいのだけど)クライエントの暮らしていく範囲でかかわりを持つ人たちに理解があれば、なんとかなっていく。暮らす範囲を広げる時はそのつど、すこしづつ理解を求めていく。地道だけど、苦しいけど、コツコツやるしかないのかな。

 
 
「普通」って自分の手の届く範囲でしか通用しない言葉なんだと再認識。
で、「常識」や「ルール」とかとも折り合いをつけなくちゃ暮らせない。
統合失調症の自分にとっての「普通」ってかなり困難を伴う「普通」だったり。
バイステックのいう「個別化」とも関係してくるんだろな。

「普通でないこと」「じぶんだけの特別なこと」を求めてみたくもなるけど、
「普通」を基準にしてしまう以上、たかがしれていたりするのだろうな。
そして、本気で求めたら周りのひとを困らせる。
「普通」との綱引きをしていく体力が必要なんだろな。
 
 
「きちがい」にあこがれる人もいるみたいな気がするけど、
病気にならなくても周りの人間困らせる人は「きちがい」なわけで
ほとんどみんなが「きちがい」なんだろうな。

ほっとするような、つまらないような。

あさ

山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。

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あさ

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