ハーメルンという小さな町には、昔「笛の音で困り事を片づける旅人」の伝説があった。
これは、そのずっと後の時代の話。いまの笛は、耳では聞こえない。
町は静かだったが、見えないものが増えていた。耳の奥に落ちる「ことばの種」だ。短いひと言、切り取られた写真、あいまいな「らしい」。それらが芽を出し、心に「怒りのつる」を巻きつける。つるに引っぱられると、人は浅く信じ、すぐ広めたくなる。
夕方、角度で模様が変わる上着の男が来た。手には音の出ない笛――口元に黄色い警告三角、胴には細い刻み目。
「これは犬笛。まっとうな人にだけ届く合図です。町をよくしましょう」
男は役場の前で、町の傷に指を押し当てて回った。
「川沿いの古い橋は、去年の増水で踏板が抜け、老人が落ちて腕を折った。いまも仮補修のまま」
「夜の見回りは二か月遅れ」
「申請は机の上で眠っている」
強い薬はチラシの光沢紙で包まれていた。舌がしびれるほどだ。町長はうなずき、代金欄が空白の「成果報酬」契約に署名した。
最初の笛。音は聞こえない。
だが掲示板に反対しにくい言葉が増えた。「子どもを守れ」「無駄をなくせ」「健全な伝統」。読むたび、胸のどこかが小さく鳴る。ぴ。足どりは同じ方角へそろっていく。
二度目の笛の翌朝、パン屋に貼り紙が出た。「この店は握手を拒んだ」。若い職人は慌てて剥がし、説明を貼る。師匠は生地を守るため、粉だらけの手を拭くまで握手しなかっただけだ。昼には「買わない列」が伸び、電話は鳴りやまない。列のいちばん後ろで、途中まで出た財布がそっと戻る。ぴ。怒りのつるが店先を締めつける。
三度目の笛で、町はいっそう静かになった。疑問は「面倒だ」としまわれ、反対は「空気を悪くする」と退けられる。夜、子どもたちが歩き出す。
「どこへ?」「正しいところへ」。
正しいところは、みんなが向かう方角にあると信じた。掲示板の隅で、昼に撒かれた種が夜のうちに指の長さだけ伸びていた。
老教師は気づいた。
「この笛は『弱いところ』で鳴る。こわさ、急ぎたい気持ち、認められたい心。そこに合わせれば、どんな言葉でも正しく聞こえる」
老教師は柳を削り、小さな木笛を作った。名は間(ま)の笛。札には三つの約束。
一、押す前に十数える(一拍置け)。
二、信じる前に三つ確かめる(人・場所・時)。
三、怒る前に相手の名を呼ぶ(「情報」ではなく「人」を見る)。
非常時の注釈も添えた。――命に関わると判断したら、数えながら走れ。三つは走りながら確かめろ。
老教師が合図する頃には、もう回線は焼け始めていた。
役場の電話が立て続けに鳴り、救急の応答が一拍遅れる。工場では受話器を戻す手が震え、新人の時計が一分遅れる。夜勤の母親は嫌がらせ電話で子の寝かしつけに失敗し、朝の保育に列ができる。棚卸し表に欠番が増え、数字は翌月へ押し出される。
若い職人は間の笛を吹き、三つ確かめた。理科室の試薬紙、役場の水質票、川縁の採水日時。結果は「落ち葉の色、危険なし」。噂の張り紙の出どころを辿ると、老女だ。あの夜、老人を引き上げた。
「怒っていたの。やっと誰かが動くと思ったから」
「分かります。だからこそ、間を置いて確かめたい」職人は頭を下げた。
翌日、広場で修復が始まる。老女は先頭で謝り、工場の作業員は水質票を掲げ、パン屋の師匠は水で手を洗ってから老女と握手した。止まった分の賃金は、拡散に加わった者たちが少額ずつ出し合う。回復は一日では終わらないが、手触りのあるやり直しが動き出した。橋の踏板の本補修も、その週に着工した。
帰り道、役場に請求書が届く。代金欄は空白なのに、紙面の奥から名前が浮かぶ――「町長/わたし/匿名の誰か」。匿名はすぐ影に変わる。下請けの未払い、救急搬送の遅延、保育の延長。老教師は欄外に小さく記す。「支払い主をあいまいにするな」。若い職人は自分の名に印を押した。「広める前に確かめる費用は、これから自分で払う」。
去ろうとする犬笛吹き男を、老教師が呼び止めた。
男「遅れた橋で落ちた人間を、君の『十数える』で戻せるのか」
教師「戻せない。だから『赤札』を作った。遅らせない相談は赤、時間をかけて確かめる相談は青。迷いは青へ、迷いなき命は赤へ直行だ」
男は肩をすくめ、笛の刻み目をなぞった。
男「弱い音は、飢えた心に届かない」
教師「だから町で補う。毎日、飢えを鈍らせる習慣を置く」
職人「うちはパンを焼く。町は手順を焼きつける。毎朝やる。忘れないために」
窓口の「十・三・名」カードの角がすぐ丸くなり、サイレンの日、「数えながら走る」の声が通りに広がった。朝八時の木笛で始まる一分が、窓口と現場の同じ手に宿った。その週、赤札で通った通報が一本、迷わず救急に届き、到着は一分縮まった。同週、青札で止めた誤報が一本、回線は塞がれずに済んだ。
町は毎朝の合図を覚え始めた。
その日から掲示板の端に小さな欄が生まれた。
――十、数えた? 三つ、確かめた? 名で呼んだ?(命は数えながら走れ)
パン屋の張り紙には「焼き上がりまで十数えます」の下に、拭いた手の絵。役場の窓口に赤と青の札が並んだ。札は混雑だけでなく、責任の向きも割った――遅らせたのは誰か、急がせたのは誰か。
木笛に合わせ、店先のつるがほどけていった。町は前より遅くなった。だが「支払い」は、隣の未来ではなく、自分の時間と注意でまかなえるようになった。
夜風に二つの合図が交互に鳴る。音のしない犬笛は、もう町を動かせない。かわりに、かすかな木の音が残る。犬には退屈、けれど人にはよく響く音が。
*
昔の伝説では、笛の音に子どもたちが連れ去られたという。
いまの時代、連れ去られやすいのは「時間」と「判断」だ。
連れ戻す笛の名は――間。