自信の振れはば

自分語りが鬱陶しいのは分かるけど・・・。
自分の自信について、考えることがあります。

病気のせいと言うよりもともとの性格にかかわることだと思うのですが、自信が過剰な状態と過小な状態でかなり振れはばがあります。等身大の自分の像が獲得できていない。

ちょっと背伸びして難しめの本を読んだりすると、自分もそれに合わせて大きくなる。その道の専門家の意見を、批判してみたり、解釈してみたり。自分の器を考えると、とても言えたようなことじゃなくても、なんか自分の基盤から遊離したことを書きたくなったりします。

実力的に相手にならないのにね。

書いた後で、後悔したりもするのですが、その時の自分の精一杯を後から振り返るとそれはそれで、自分を形作るものを垣間見たりして、冷や汗をかきつつ、面白い。いや、面白がるより反省しなくちゃいけないのだけれど。

blogはもう半ば強迫的に書かなければ安心できないようなところがあり、無理やり文章をひねり出すことも多々あるのだけれど、ひねりだすためにものを考える時の自分のクセが少しずつ見えてきています。そのクセも体調に大きく左右されることが分かりつつあったり。

たぶん起源は小学生のころ、担任の先生に授業中「他の意見はありませんか」と言う形で、自分では考えつくしたと思ったところから、さらに何かを言わなければならない状況に追い込まれたりしたことかと。当時、学級委員だった私はクラスで何か問題が起こるたびに「改善案」をクラス全体で話し合ってとりまとめるように言いつけられることが多々ありました。先生は発生した問題についてみんなをどなりつけて、「どうすればいいか分かるまで授業はやらない。」と宣言して職員室に帰ってしまう。

ほったらかすとさらに怒るので、意見を無理矢理ひねり出す。それを解決案として持っていくとダメ出しを食らう。・・・もう、何もかも出尽くしたという状況から苦し紛れで意見をまとめていく。もうまとめるというより、逃げ道を探すという感じ。

そんなことが日常的にあって神経を病んで、小学生にして神経科にお世話になったのでした。いまだに思い出すと胃がキリキリしてきます。

工場で働く方は「カイゼン」とかで無茶を考えた経験はないでしょうか?
ムリ、ムダ、ムラを無くすために無茶を考える・・・。
現場は自分の首を絞めて苦しんだり。
そのうえそれは現場が楽になるためだと言われて見たり・・・。
私の勤めてた会社がおかしかっただけなのかな?

で、自信に話を戻すと、自信がなくても自信を持ったように振舞うということが要求されたことで、自分が今、本当に自信があるのかどうか分からなくなってます。今も自分が何書いてるのか自信が無いわけですが、私の自我のおかしなところはそのあたりが起源になっている部分が大きいのかなと思ったりします。もういい大人なんだから克服できていてもいいのに・・・。

自分を大きく見積もったり小さく見積もったり。
物差しで計れるわけじゃない、測定できるものではないのだけれど。

正直で素直になる・・・。なかなか難しいことです。

本気で正直なところを言うと、世界の全てが信じられない。
妄想と現実の境界が分からない。

虚勢を張ってなんかを正しいと信じたふりをすればボロが出る。

狂気と正気の狭間でとりあえず生きてはいるけれど。
好い加減がつかめない。妥協が下手なのでしょうか。
何かにとりつかれているのだろうか。

上の方で何かが分かりつつあると書いたばかりなのにもうなにがなんだか分からなくなっている。果たして何が分かって何が分かっていないのか。ただ言葉で遊んでいるだけなのか。思考が弛緩しています。

いや、私はただの馬鹿なのだ。

そのへんで自信が大きく振れています。

生活するために必要ないところに引っかかって、必要なところは手から滑り落ちる。
病気だけど、病気に逃げてはいけない。

絡んだものがほどけない。
せめて書き残すことでなにか見えないかなと思います。

たぶん3日もすればこれを書いた内容を忘れてまた滅茶苦茶になります。
国民皆障害者というところから自分だけ特別だというところまで。
ほんとうに私はでたらめです。

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