読みかけの本から考えた(2)

先日に引き続いて読みかけの本から。書かないと忘れてしまいそうだから。

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

p130 より

私は、精神病患者も、周囲の表情によって自分がクレージーとみられていることを知るのだ、と思う。周囲のあわれむような、やさしさを交えたまなざし”美しい”が何も内容のないことば―こういったものは、「君は今日は変だ」「君のいうことはさっぱりつかめない」といわれるよりも決定的な衝撃でありうる。彼は、何とか自分が正気であることを証明しようとする。しかし、ふだんの時には誰がわざわざ自分の正気を証明しようとするのだろうか。そしてどんな時でも証明するとなれば、論理を用い因果論を使い証拠を挙げなくてはならない。そして、これほどクレージーな印象を与えることはない。ことばによって正気であることを他人に証明する方法はおよそ実らない。この証明は他人にむかってなされると同時に自らにむかってなされる。この方は残る。そして、あるいは妄想の根となるだろう。
 おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の“妄想”をどんどん「なぜ」「それから」「それとこれとの関係は?」ときいてゆくよりずっと難しいことであるが―。

これは医者と自分の妄想について話したことのある方は実感をもってわかる文章だと思う。
自分にとって自明なことを説明し続けることはとても苦痛である。
妄想というのは妄想を抱いている者にとっては動かしようのない事実であり真実である。

最近、精神障害者の体験発表として様々な機会に体験談を話すということが行われる。何度かそういうものを見に行ったことがあるが(まだまだもっとたくさん見に行かねばと思うが)、その体験というのは病的体験のコアに触れるものではなく、社会復帰に際しての体験談であったり、生活における工夫であったりということが多いのではなかろうか。そして、そのような発表会では病的体験を語っても、あるいは話しぶりが病的になったとしても、冷やかに流され、聴衆にその体験を共有されることはない。あるいは、体験を笑い話に転化することもあろうが、それが了解されるということはなく、それゆえに病的体験なのであり妄想であるのだろう。

このあたり統合失調症について理解するのに重要な部分であると思われるのだが、実感を乗せてこれを語るというのは難しい。他者とのコミュニケーションというのは多かれ少なかれこの問題をはらんでいるはずだ。一般的に他人の経験を了解するというのはどういうことなのだろう?非統合失調症者同士での互いの理解というものは、非言語的な部分で行われるところが大きいと思う。その能力が失われた統合失調症者は途方にくれて、周囲からのメッセージを自らの文脈で理解しようとして失敗する。・・・のだと思う。

そこで、このblogを考えるのだけれど、軸としては私の体験をつづっているのであるが、本当に理解してほしいというところがまだ語りきれていない。と思っている。病気の生々しいところを語る必要があるとは思うのだが、言葉というものは難しく、かつ、人に了解される形で綴るには物語としての形を備える必要があるかとも思う。時間のあるうちに取り組みたいと思うのだけれど、今回取り上げたこの本で書かれているように困難は大きい。

今後の課題である。どうしてもやらなきゃいけないことではないので後回しになってしまうのだけれど、精神障害者に対する偏見を取り除くには、統合失調症の陽性症状を理解してもらうことは重要だと思うし、そして、それが各病者によって様々だということも含めて理解されることが必要だと思うので、なんとかしたいと思う。

統合失調症の妄想は奇怪だけど、陳腐だとも言われるらしい。そこをどう語っていくべきか。何を中心に語るのが理解を得るために必要か。いろいろ考えるべきところは多い。正気に含まれる狂気的なものも語りたいのだが・・・やはり理解はされないだろうか?

論理的ではない部分を、筋道を立てて語るというのは難しいと思う。自分の手に余るのではないかとも思うが、挑戦するには十分意味のあることではないかとも思う。

とりあえず大風呂敷は広げずに、少しずつ取り組みたいと思う。

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