死ぬ死ぬ言ってると不謹慎かもしれないが。

地震でなくなられた方、その御家族には申し訳ないと思うけれど。
でも、冷静に考えてみた。

これを見てみると、
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei10/dl/suikei.pdf

日本では1年に119万4千人の方が亡くなっている。

震災でなくなった方が極めて多いのは確かなのだけれど、
死というのは日常的に割と身近にあるものだ。

いろんなことの自粛ってのが、ことさら目立つけれど
だったら毎年自粛しなくちゃいけない気がする。

数字上の話だと実感がわかないけれど。

生き延びた者はたいへんだけど。心中察するにあまりあるけれど。

なんか、納得いかないものを感じます。

4 comments

  1. シバ says:

    自粛という言葉が一人歩きしてる感はあるよね。
    「喪に服す」は抵抗があるのかな?

    こんな商売してるとお祭りなどの裏側にもよく関わりますが、
    今回は某民営国鉄や某元道路公団などからの協力や
    各自治体の余剰な?労働力が足りなくなってしまって
    主催者や商工系の団体さんは是非にも催行したいけど
    スポンサーなどお金の問題「以前」の段階で
    断念せざるを得ないと言う感じです。
    ここでは詳しく書けないけど・・・

    なので現実は「自粛」と言う言葉で誤魔化さざるを得ないだけであってね。
    それで納得してくれとは言えないが、正直なににに怒りを?と感じた。

    詳しく疑問を整理すると、
    年間死者数との対比にはあまり意味が無いのではと?

    詳しい統計等が出ないと解らないが、
    今回のような巨大な自然災害や事故による人的損失は
    一般的な病死等との対比はできないと思う。
    等の中身がちょっと色々過ぎるが。

    ドライな言い方すると
    一般的な死はそれ自体がイベントで生産活動に組み入れられてる。
    実父の際にそれは強く感じたし、未だに出て行くお金も発生する。
    個々各々で弔いもされる。
    いや、幸か不幸かされてる場合が多い。

    対して数万単位が瞬間的に喪失されると
    本来落とされるべきだったお金や生産は発生しない。
    しかも病死等と違って生産性の高い人間の喪失も多い。

    そして一家丸ごと亡くなった場合や
    子供だけ残されたパターンも多いだろうと思う。
    その方々は一般的な弔いは受けられない。
    それこそ、不幸なことにと言っていいのか解らないが。

    だから「自粛」と言う名の弔いは
    日本人のメンタリティ的にも自然と発生するし当然だと思う。

    経済活動の面含め、不幸にも亡くなった方より生きてる人間の・・・
    とは自分も思う。

    思うが、それだけで割り切れないコトだと思う。

    もう一回書こう「それで納得しろ」とは言えない、
    でもだからと言って今回のエントリが
    「冷静に考えた」こととは思えない。

    ちょっと怒りを感じたので長文ですまん。

  2. あさ says:

    >シバ さん

    コメントありがとう。怒りは思う存分ぶつけてくれて構わない。

    シバさんの意見は理解出来る。納得はまだできない。

    今回、私の頭の隅っこにあるのは「昭和天皇」の亡くなった時のこと。
    うちの祖母も同時期に死の床についていました。
    祖母の方が1ヶ月ほど遅れて旅立ったのだけれど、
    一方ではマスコミ総出で大々的に喪に服し、
    一方ではお笑い番組が日常通り放映されてた。

    なんか理不尽だ。同じ一人の人間なのに(無茶言ってるのは自覚してる)

    生産性とか金銭で別のものになってしまうのだろうか?
    資本主義経済下では仕方が無いのだろうか?

    昔から災厄があると元号が変わったりしていたわけで、
    日本人としては今回の地震のようなことと、それに巻き込まれた人を
    特別視するのはわかるような気がする。

    死というのはシバさんがいう通り生産活動、
    言ってみれば日常に組み入れられている。

    私は祖母の無くなった3日後に学校の入試があった。
    情け容赦なく、現実に自分が叩き込まれて、
    ある種暴力的なものを感じた。

    だからなんとかしろっていうことは出来ないかもしれない。
    一種の甘えと言われてしまえばそれまでだ。

    みんないろいろな事情を抱えて、理不尽なことに耐えて生きている。

    今回の震災は被災者にとって理不尽なものであるだろう。

    でも、年間の死者数の分だけ理不尽は存在すると思う。
    そこで対比してみたわけだ。

    一家丸ごと亡くなることも子供だけ残されることも
    震災のときのみ起きることではないと思う。

     
     
     
    で、何に怒ってるかって言うと、
    「日常」がわにあったお金、子供手当だの高速道路代の減免など、
    119万人の亡くなる人の側、つまり日常側にあるものが、ほいほい振り替えられていくことだ。(もの凄い語弊があるが、勘弁してくれ)

    震災からの復興のために困ってる人に援助するのは正しいと思う。
    でも、正しさの裏側の犠牲(というといいすぎなのだが)を
    考えなくて良いのかな?というところが納得いかないというのはある。

    それって必要な支出じゃなかったのか!?って。

    めぐりめぐって一日も早い復興が日常側にも
    利得をもたらすのだろうけれど。

    で、ふと思ったわけですよ。
    日常的に一週間もあれば、今回の震災と同じくらいの方が
    亡くなっているのだということを。

    これを心の中に置いておきたいと言うのが
    今回のエントリの趣旨のつもりだった。

    怒りを感じるのはもっともだとも思う。
    でも、死についてマスで捉えるのって何か変じゃないかとも思う。

    毎度ながら自分の表現力の足らなさにもどかしいところだけれど
    そんなことを言いたかったわけです。

     
     

    震災被害の当事者にもし自分がなったら・・・?と思えば簡単だけど、
    でも、震災が無くても今、「悪性症候群」で急死するかもしれないんだよなって思ったり。
    そんな感じで私のこころがバランスとれてなかったかもしれない。
    そのあたりは冷静ではないのかもしれない。

    震災が無くても、今日死んでもおかしくないんだよな・・・って。

    ・・・これってやっぱり冷静じゃあ無いんだろうか?
    常識から逸脱してるのは明らかではあるけれど。

     
     
    理屈こねても「死」は理解できないだろうけど。私には。

    何か良くわからん文章になった。すまない。

  3. シバ says:

    なるほど、興味深いトラウ・・・いや経験談ありがと。
    同じ様なのを聞いたことあるなぁ。
    天皇は今日ほにゃららCC輸血で下血がなんとか言ってた時に、
    お父さんが末期癌だった人から、理不尽を感じたと。

    そんときも思ったが、比較することに意味があるか?だよね。
    比較しちゃうし、やっきりするのはよーく解るが。
    自分が感じた違和感や怒りは多分
    そんな比較が「後ろ向き」と感じるからだと思う。

    自分は逆に子ども手当や高速無料化より
    復興にお金を廻すのはアリだと考えるのよ。

    どのみち増税か国債でお金を召喚するんだから行ってこいだし、
    無かった状態に戻るだけだしね。
    継続しないということは「バラマキ」でしたと宣言したようなもんだけど。

    と。
    で、どぅ?

    血液検査の件含め、
    季節柄か「ネガ」ってる感じが強かったんで
    アンチテーゼってガス抜きさせようかな作戦だったんだが?

  4. あさ says:

    >シバ さん

    いま仕事中だぁね。ガスはもう溜まりにたまっとるね。

    本業の方が思わしくないんだけど、いまは我慢の時期なんだと自分に言い聞かせて修行中です。

    モバイル環境整えて、出先から「e-内容証明郵便」出せる様トライしたり、
    無料相談の要の「相続・遺言」に対応できる様書籍買い集めたり。
    他の資格との業際を見極めてニッチは無いかと各資格関連書を調べたり。

    ストレスたまっとりますわい。

    血液検査は仕事終わったら報告うpしますわ。

    ・・・驚きの結果が!!

    乞うご期待・・・ってなんだそりゃ。

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