ああ、すっきりした。

http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php

こないだお客さんの家のこどもを見てて、
親の方になんかモヤモヤしてたものを感じた。

すごく賢い小学1年生で、自分で本を読んで大人顔負けの知識を持ってた。
将来はおじいちゃんの病気を治すために医者になるそうだ。

親はヤフオクで稼ぐ商売人。でも、ネット設定など自分ではできない。

なんだこの違和感は。

と思ってて、これ読んでふむ。と思った。

結構、メンヘルカテゴリではこういう風潮に潰されてきた人が
いるんじゃないかな?そんな気がする。

自分はどうだっていうと、なんとも言えないんだけれど。
早く大人になりたいものです。

4 comments

  1. 谺(こだま) says:

    こんにちは。

    リンクの内田氏の言葉読みました。
    教育、福祉、医療などが、
    市場原理・競争原理のなじまない領域だということは、
    昔は、
    もっと自明のことだった気がします。

    何か、
    うまいやり方がないかと、
    急かされて、
    競争させればいいんじゃないかと、
    思ってしまうのかなあ?

    谺でした

  2. nvsnva says:

    人様のブログで語るのがいいことかどうかわからないし、教育について語るのは怖いことですが・・・。

    私の雑感です。絶対正しいかどうかまでは確かめていない。

    学校教育に関していえば

    —–
    1,社会の急激な変化を感じている人たちがいるということは、意識した方がいい。「急激な変化ができない」を理由にした教師たちの言い分が通ってしまう環境では、場合によっては、教師たちが不信の対象になりかねないと思う。

    2,”ちょっと動かしてみて、間違ったらすぐに戻れるようなように慎重にやってみて、上手く行ったなと思ったら、「こういうやり方、割といいですよ」ということをアナウンスして、また少し進める。”という、方法で変化をスムーズに起こさせようとするなら、とりあえず2つの条件が思いつく。

    ひとつは個々の教師が自由にやってもよい状況をつくること。何十万人という子供に影響を及ぼす教育政策に基づいて、何千人という教師が、同じことを「ちょっとやってみて失敗した」となったら、えらいことになるけど、個々の教師が、わずかのこどもたちを対象にして、それぞれことなったことをやるなら、ある教師が「ちょっとやってみて(あるいは思い切ったことをやってみて)失敗した」となってもなんとかフォローできる。(あぶなっかしい考えだな。)

    もうひとつは、すべてとまでは言わなくても、多くの教師たちが、なにか、ある程度良質の、おおよそ共通のベースをもっていること。ある教師の「こういうやりかた、割といいですよ」というアナウンスが、教師達の間に円滑に流れ理解されて、「じゃあ、こっちでも試してみる」という他の教師の作業が円滑に行われるためには、これが必要。
    —–

    私の論理と感触でものを言っているからね。どの程度あたっているか。わからない。

    私は、発達障害を持っているからね。もう、ぜんぜん有能じゃない。わたしよりずっと有能な、ふつうの先生方が、うらやましいです。

  3. あさ says:

    >nvsnva さん

    発達障害を気にする必要はないよ。
    気にさせる社会が悪いんだ。と、極論。
    有能無能の尺度って一律ではない。
    少なくとも、nvsnvaさんはその個性に価値がある。
    つうか、自信を持って!
    危機に対する敏感さはピカイチだと思うから。
    センサーの鋭敏さは私にはかなわない。才能だと思う。

    みんなできることとできないことがある。
    できないことがあるのにそれが何かであるかによって大きく差別される。
     
     
     

    で、話戻って、教育ってのは模索させることだと思った。
    真似させることではなくて。

    そのやり方をあれこれするのはいいけれど、
    それに結果を求めるってのは難しいと思う。

    私が仕事先で会った小学生は、まだこれから挫折などを経て
    いろいろ模索していくと思う。
    その機会を与えるのが教育の場所ではないんじゃないかなと思う。
    本を読むことで色々知ってた子供だったけれど、
    親が先回りして仕掛けてた感じもした。
    自力でブートストラップできるようになるとすごいやつになると思う。
    優秀な奴になるか、面白い奴になるか。どっちかな?
     
     

    話変わって、義務教育ってのは何かっつーと、
    「知らんとやばいことを教えとかんとイカン」
    ってのがベースにあると思う。受験のためにあるんじゃないわけで。
    逆に、最低限の生活に必要な力が付けば義務教育から卒業でいいと思う。
     
    なので、誰か私が入れる小学校を探してください。
    社会で生活していくすべを教えてくれる小学校を。
    飯を食っていく方法を模索させてくれる小学校を。

     
     
     
    数年後、この日本で安寧に暮らしていける人間がどのくらいいるのか?
    ちょっと興味が有るところですが。
    いろいろな情報から考えるにそろそろ・・・。
    (いつでも言われることだけど)

    義務教育ってのが必要なのは
    国が義務を課さないと自ら教育ができないっていう
    私らの退化っぷりが問題になっているからであるわけで。

    そんな感じで、全国民は、みんな障害を持っているんだ。
    社会的に学校の助けを借りなければ生きていけないという障害を。
    憲法からしてそれを明言しているにちがいない。
    それを、みんな誤解してる。このままでは国は崩壊する。
    大人でも入れる小学校を整備しなければ国は滅ぶのだ!

    と、毎度の迷走を始める私なのでした。
    ごめんなさい。わけわかんないでしょ。

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