カテゴリー: 生活

クビを洗って・・・

アカさまがミルクをよく吐きます。

流れ流れて首筋に。で、かぶれ気味。

よくふいといて、お風呂の時に洗ってやるんだけれど・・・。

すぐにまたゲポっと・・・。

ゲップさせておいても吐いてしまいます。

あわてて飲んでるのかな?

飲み込みが悪いのはどうも私に似たようです。

それでも通院日はやってくる。

通院日。

薬をもらうのに10分ほどの診察を。

そのために数時間を費やすわけですが・・・。

結構色々負担で、そのあと仕事の打ち合わせ、そのさらに後に勉強会なわけで、
大変だけど、頑張る。

自分に対しては言える。頑張れ。

このへんの調整ベタなのも病気なのだろうか・・・?

そんなこと言ったら、みんな病気だよな。

やっぱり、みーんな障碍者。社会環境のせいで生きづらさを感じている・・・のか?

なんなんだ。まったく。

悪コンディションでも高パフォーマンスを…。

肺が痛い。眠い。腹下り気味。
風邪っぽい。

アカさまおむつかぶれで大泣き。

睡眠不足。

それでも書類群3セットの内2セット準備した。

あとは難物が1セット残っている。
少しずつワープロに向かって処理中。

何回か突っ返されるのを覚悟の上で・・・。

明日は打ち合わせなど3つ用事が重なっている。
甘えてはいられない。

それでももういくつか仕事が残っている。
非情にも直したばかりのWebに変更指示が。
手際良くやらないと・・・。

学びつつ挑戦の日々です。

認知の歪みに対しての対応とノーマライゼーション

今日は書類3セット揃える作業で忙殺されそうです。

で、関係ないのですが、どう考えても自分の認識と異なった見方で
世界を捉えている人への対処について。

認識が異なるというのは認知の歪みも含めて
最近の政策論議なんか見てても思うのだけれども、
同じ物が提示されているにもかかわらず
異なった見方で、あるいは考え方で物事を捉えてしまう現象が、
大変問題を引き起こしております。

一般的な認識っていうものがあるとするならば、
それから外れれば「狂い」とされるわけだけれど、
障害による妄想などを抱えていても社会生活ができるようになるためには
認知の歪んだ状態でも生活できなければなりません。

それがノーマライゼーションと結びつくのであれば、
かなりおかしなことを言っていても社会の側でそれを吸収、
あるいは緩衝せねばならないのかと思われます。

障碍は社会の側にあるとするならば、
おかしなのは社会の側?

さてさて、この言説。
どこまで拡大解釈ができるものなのか?
社会を作るのは各個人間の議論等による合意によるわけですが、
頓珍漢な認識というものもあるわけで、
そこは疾病といってしまうしか無い。

疾病は医療の対象となるわけだけれども、
果たして、個人の思想や感情を医療の対象にするのはどんなものか。

現在進行形で私の周りで起きている
「一方的な思い込み」と「政治的信念のぶつかり合い」
この両者の決定的に分けるものはなんなのか?

ノーマライゼーションのためには同等に議論の俎上に乗せるべきなのか?

全く頭の痛い問題なのですが、
このへんの議論について深く考察されたものって
なんかあるんでしょうかねえ?

あったら知りたいのでご一報を。