カテゴリー: 統合失調症

統合失調症の特性をあらためて見てみる。

ここ数日スクーリングの影響でアタマが使い物にならなくなっています。
やっぱり「障碍」は私の中に大きく傷を入れているようです。

で、ネットを散策して気晴らししていたのですが基本的なところでこんなのを見つけました。
大阪での人権研修資料から抜粋
http://www.city.osaka.jp/kenkoufukushi/handi/handi_jiritsu15/070821_01.pdf

統合失調症とはーその症状と特性ー ②
統合失調症の場合、一旦回復しても人によっては後遺症が残ることが
知られています。また再発予防のために服薬している薬の副作用や
入院体験による社会性の減退によると考えられるものがあります。

よく見られる特徴(障害特性)として次のようなものがあります
・ 細かな指先の動作が苦手
・ 動作が緩慢
・ 周囲への関心が乏しい
・ 複雑なことが苦手
・ 臨機応変に判断することが苦手
・ 問題を切り抜けることが苦手
・ 自信がない
・ 新しいことに対して不安が強い

自分にあまりにも当てはまるのでやっぱり、自分は無理をしているのだなと思いました。
正確には「無理」じゃなくて「非効率」だったり「場にそぐわない=負荷が大きくなる」行動をとっている。大学のスクーリングでめったに遭遇しない事態に置かれてオーバーヒートしてたんだなーきっと。

休息が今は必要なのでしょう。エネルギーの枯渇を自分でコントロールできないところも問題。しばらくテンション下げるよう努力します。

・・・といっても、簡単に下がるものじゃないけど。
すこしでもゆったりできるように・・・。

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「統合失調症ぼくの手記」を読んだら・・・

スクーリングに行ったとき、生協の本屋に寄りました。
さすがに福祉関連の本は充実していまして、あやうく手持ちのお金を全部はたいて欲しい本みんな買い占めようかと思いましたが、ぐっとこらえて2冊選んで買ってきました。

そのうちの一冊です。

オーストラリアの統合失調症者の書いた本です。
美術系大学で学び、現在はイラストレーターだそうです。

ドラッグに手を出したのがきっかけで病の世界に入っていきます。
周囲の物音や他人の会話から非現実的な妄想を生じてしまう・・・。
友人たちと生活しながらも、症状は消えません。

周りで誰かが自分を監視しているとか、ささいなことに自分へのメッセージを感じ取ってしまう。親しい人まで自分を陥れようとしていると感じたり、偶然が偶然ではなく仕組まれているものだと感じたり。

症状の主観的記述が冗長に思えるくらい書かれています。

そして、読めば読むほど彼の体験は、私の体験に酷似しています。
「ああ、そういうことあったなあ」となつかしく思ったり、そういう状態の時の恐怖感を思い出したりと、244ページの本をあっというまに読み終えてしまいました。ドラッグはやったことないし、彼ほど活動的ではなかったけれど、体験したことがほぼ同じなのです。

「統合失調症」の患者はひとりひとり違うのだと理解しなければいけないけど、同じ名前の病気であることが納得できました。

 
急性期症状の記述が主なのですが、この後の慢性期の陰性症状がどんなにきついものかについてはあまり書かれてはいません。長く続くしんどい毎日、自分の思いを満たせない能力低下・・・。急性期の陽性症状の激しさは本にもしやすいのだろうけど、その後の回復過程をもっと読みたかったと思いました。

 
 
たぶん、この本って当事者以外が読んだらピンとこないところが多いのだろうな・・・。

当事者が体験を語るということについても自分の考えをまとめてゆかねばと思いました。

ザイディス!ザイディス!いや、液剤!!

ここのところ不眠傾向というか生活のリズムが崩れている。寝つきが非常に悪くて夜眠れず、昼寝をしてしまってリズムが際限なく崩れていくというわるいパターンにはまっている。

明日は大学へ行かないとならないので早起き(といっても朝6時起き)しなければならない。今夜は早めに眠りたいのですが、最近眠剤の効きが悪くなりつつあり、さらに薬効が切れると中途半端に目が覚めるという嫌な状態にある。

使用している眠剤はアモバン7.5mgとデパス0.5mg。
以前はどちらか一方を使用すれば眠れたのだけど今は両方飲んでもなかなか寝付けず、数時間ふとんのなかで眠くなるのを待っている始末。夜が明ける前に薬が切れて、活動開始。するとお昼頃に眠気が来るという感じ。で、昼寝で睡眠が足りてしまうから夜さらに眠れないというループ。薬が悪いというより生活の仕方が悪いのだけれど。

 
今日は起きたのがお昼ちょっと前で夕方になった現在、そのまま起きているので明日は何とかなりそうな感じ。

でも、いざというときに一発でリズムを戻せないかと思案してしまう。

で、思いついたのが「アモバン・ザイディス」!!
アモバンの口腔内崩壊錠だ。
短期型の睡眠導入剤をさらに切れ味よく使えないかという発想。
すぐ効くだろうか?ジプレキサの例ではここを見ると錠剤とザイディスでは効果は変わりないらしい。口腔内の粘膜から吸収されるものでもないようで即効性は期待できないみたいだ。

 
だったら「アモバン液剤」!!
リスパダール液剤の例を見てみるとすぐに効きそうだ!
超速で睡眠できる奇跡の眠剤になるであろう!

製薬会社の皆さん!ぜひ「アモバン液剤」の開発を!!
グレープフルーツ味なんてケチな事いわずに「ストレート」でぜひ勝負を!

液体のアモバンを容器から口の中にちゅーっと出して・・・。
 

使用者がどんなことになっても私は知りませんが。

・・・ええ、知りませんとも。

わかる人にはわかる大人の味のお話でした。

「あたりまえの暮らし」ってなんだろう?

福祉の目で精神障害者を語る時によく言われる「あたりまえの暮らし」。
いま、レポートを書くために悩んでいます。

「あたりまえに苦労する」ことが言われてみたり、ノーマライゼーションとからんでみたり。
症状から生じることを素直に受け止めることなのか?
素直に受け止めた上で福祉関係者に必要なことを必要なだけ求める・・・?

それは「世間並み」とは違うのだろうとは思う。
「普通」という言葉もあてはまらないかもしれない。
(そもそも普通ってなんだ?)

統合失調症を患って、「喜怒哀楽」が変調をきたしているときには、世界は「あたりまえ」には見えない。そこから社会に結びついていくことが「あたりまえ」への道なのか?でも、「幻聴」「幻覚」の存在する世界で生きていくことになりそれは「あたりまえ」なのか?

精神保健福祉の勉強をしていく流れの中では困った時に適切な援助を得て、自分の意思で自由や権利を行使できるということが大切だということになるのかもしれない。まだ勉強中で自分の中でまとまらないけど。
 
 

でも、逆に世間一般の人は「あたりまえの暮らし」をしているのだろうか?
サービス残業や休日出勤に追われ、低賃金で解雇におびえ、パワハラに悩み、明日が読めなくて・・・。その結果、精神障害に追い込まれるような暮らしをしているわけで。

それが「あたりまえ」になっている。自分の意思ではどうにもならない毎日。
普通の人が「あたりまえの暮らし」ができていないのに障害者にそれができるのか?
いや、「あたりまえ」に暮らしているから「あたりまえ」でない生活が可能になっている?
なんだか混乱してきました。
 
 

それとも、厳しい中で小さな幸せをみつけてささやかに暮らしを営むことなのか?
苦しい中でもがんばって生きている人はいっぱいいる。

たとえ、努力が報われなくても、毎日をやりすごしていく。

「あたりまえ」を実感することはないのかもしれない。
狂っている世界での「あたりまえ」は実感してはいられない。

 
「あたりまえの生活を奪われた・・・」などというフレーズに出会ったりする。そんなときこの社会ではいろんなものが奪われている人間が「あたりまえ」なのにと思ったりする。大事なものの欠落を受け入れてゆくことが「あたりまえの暮らし」なのだろうか。

 
 
 
金曜日までにまとめてレポートにしないとならない。
勉強不足を痛感します。

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追記
2008/12/09 AM5:40
AM2:00に寝たのにもう目が覚めた。昨日昼寝したせいだろう。
アモバンの効力が切れたと同時に目が覚めた模様。
・・・「あたりまえの暮らし」、できていない・・・。

判断能力の判断は誰がするか

「現代倫理学入門」加藤尚武
本棚から久しぶりに出してきた本。
これの第6章が「判断能力の判断はだれがするか」ということをとりあげています。

私は「統合失調症」を患っており、陽性症状がぶり返したりして、危険な状態になったら場合によっては「自傷他害のおそれあり」として入院させられてしまう可能性があります。この場合、私の人格は認められず、周囲の人間の判断によって保護室等への隔離や鎮静剤などの投薬によって自由を奪われてしまうことでしょう。

大事件などでは、「心神喪失」や「心神耗弱」として罪が減刑されたりして、しでかしたこととその償いとのアンバランスが問題になったりします。

でも、誰が他の人間の判断力の有無を判断できるのか?

まともな判断力を持った人間とは誰のことなのか?
裁判員制度の根っこの問題でもあるかもしれません。

みんなの合意で判断力があるかないかを決めるなら、そのみんなの中に私のような障害者も含まれなければなりません。これは加藤氏が例に出してる人種問題で「黒人」が奴隷として人格を持たない存在として扱われることが妥当かどうかを「白人だけ」で決めることが正しいのかという問題と同じだと思います。

で、多数決が正しいかというとそんなことはなくて、少数者が正しいということも十分ありえるわけで、さらには多数決に参加できない未来の人々が現代の浪費社会に異を唱えようとしても不可能だったりします。未来の人から見たら現代先進国の人間はみんな狂ってると思われるかもしれません。

 
 
そんな前振りをしておいて、最近コツコツやってる事例検討を考えてみます。
まだ勉強中でその真意を汲み取れていないところがあるのだけれど、今、思うことです。

精神保健福祉士になる勉強なので精神障害者にどう対応していくかということが中心になるわけなのだけれど、「当事者の意見」を大切にということが示されます。

当事者からの意見の聞き取りの場面などが出てくるわけなのですが、結局現実的な対応としては障害者を社会に適応できるように指導するという形になってみたり、指導する側から見て都合のいいことに着目して、それを「ストレングス」と言って伸ばしていこうとします。あるいは、「本人が気づくのを待つ」といった形で当事者が援助者の都合のいいところに落ちてくるのを待つ(ように私には思われる)場合もあります。

現実的に暮らしていくためには、社会と折り合うのは必要ですが、社会が正しいかどうか判断するのは誰なんでしょう?正しいというと語弊があるかもしれません。でも、常識というかたちで何かが存在しているように感じます。世間というのはそんなに正しいものなのでしょうか?世間がなければ生きていけないのは確かなのですが・・・。

また、「ものは言いよう」で、事実の解釈の仕方で評価はどうにでも定まる場合があります。ポジティブな側面を強調すれば正しくなる行為もネガティブにとらえると悪いことになる・・・?判断はどこに基準を置けばいいのでしょう?
 
 

話は変わりますが、いま、非正規雇用者の解雇が問題となっています。で、「非正規」ってなんだったんでしょう?雇用はされていないけど雇用されてるって意味だったのでしょうか?(まあ、社会保険に入っているかいないか、などで経費が削れるかどうかが境目なのだろうけど。)このあたり、世間一般の大多数が正しい判断をできていたかどうか極めて疑わしいと感じたりします。否応なしに政治的な判断で決まった仕組みに振り回されてる方も多いんでしょうが。。

そんな世間の正しさは、障害者にも降りかかっています。
障害者の通う地域作業所の工賃は最低賃金を大きく割っています。「雇用」ではないからOKらしいです。それだけの能力がないのだから仕方がないという理屈なのでしょうが、それって正しいのでしょうか?

街へ出ると、閑職(というと失礼だけど)で生計を立ててる人も大勢いるのだから、なにかやりようがあるはずだと思います。長い目で見れば淘汰されていくのかもしれないのですが。

いま、製造業を中心に不景気でコストダウン圧力が高まっていたり、人員削減をしたりと大変なことになっているらしいです。乾いた雑巾を絞るようにコストダウンしていたところにさらに圧力がかかるのだからたまったものではないだろうと思います。そして、一回コストダウンに成功すれば、逆に好景気の場面で納品価格に上乗せした御祝儀くれたりするのでしょうか?まあ、仕事の発注は増えるのでしょうけど、カツカツの状態で仕事を増やされるわけですから下請け中心に苦労は不可逆に増すわけで・・・。

これって、どっか狂っていないでしょうか?私の認識が被害妄想モードに入ってるのかもしれないけど、判断力の正しさを判断するということを考える時、いったい何が正しいのか判断できる人はいないのではないかと思われてくるのですが・・・。

偉い学者さんの学説を持ち出すほどの能力が私にはないので、素朴になんか変だと思うわけですが。

よく障害者福祉の世界では「あたりまえの暮らし」とか言われてて(今度のスクーリングまでにそれに関してレポートを書かなくちゃならないのだけど)、「あたりまえの暮らし」を考え始めて、いまそのへんにいる普通の人って「あたりまえの暮らし」をしているのか?と大きな疑問を抱えるに至りました。いま、世間の人と同じ苦労を障害者に求めたらつぶれるに決まってます。みんな「あたりまえ」に死ぬか生きるかの生活をしている。そんな気がします。それは早とちりでしょうか?

障害者があたりまえに働いて暮らすために、仕事としてパンを焼いたり、クリーニングや喫茶店やいろいろな挑戦をしているところがあるのは承知ですが・・・。世間との間に断層があるように思えるのですが・・・。そこが長所でもあり短所でもあるのでしょうか。

レポートの出題意図は別なところにあるのでしょうけど、世間の判断力が狂っていそうなのに、世間にインクルージョンされてその中でエンパワメントされていくという図式は、なんか違和感を覚えます。狂った世間を基準にノーマライゼーションされたらどんなことになるのやら。カタカナ語ってひとをケムに巻くには便利です。

まあ、狂っていなかった時代がかつてあったかというとそれはそれで疑問もあるのですが。
精神障害を世間に知らしめていこうと考えたりすると世間の狂いにも目を向ける必要があるわけで。 
「あたりまえ」っていったいなんなんでしょうねえ?
 
 
えーと・・・。多分私が狂っているんでしょう。
なんかまとまらなくなってしまいましたが、宿題が終わらなくてパニックに陥ってることだけご理解いただければと思います・・・。