PSWと当事者性の矛盾みたいなもの

実習がとりあえず終わって、体を休めています。

実習の最終日の日誌と全体を通してのまとめを書かねばなりません。

ずっと思ってたんだけど、「PSW」と「精神障害当事者」の両者を併せ持つということ。これは、当事者性を生かすことによってなにか大きなプラスになると思ってきました。

で、実習の日誌で精神障害者としての視点での物事の捉え方で何か書くと、PSWとしてそれはいかがなものか…的な反応が返ってくる。これに加えて「患者さんのこころを想像して…」と続いてくる。ずっと違和感が感じられて、自分を見失う。

指導教官からは実習の目標として求められるのは「PSWのあさ」であって「当事者でPSWのあさ」ではないと釘をさされた。
デイケアでの実習では障害をオープンにすることが病気の寛解と治癒の違いについての誤解を生んでトラブルを招いた。これは私も悪いのだけれど、患者が自分の病気や障害について学習する機会が少ないことも一因だと思う。勉強が嫌いな人がいるのは承知してるけど。

なにかおかしいと思う。
実習後半はずっと午前2時~3時くらいまで考えて日誌書いてた。朝6時半には起きないとならないのに。

PSWという専門職に就くためには条件がある。義務もある。守るべき倫理もある。
カンタンに名乗ることのできない責任があることもわかる。
能力や資質が資格を取る以上担保されてないといけないのも分かる。

でも、「PSWである]ことと「精神障害者である」ことではどっちが自分の核に近いのか?

ここで、PSWとしての能力がないと資格は意味を成さないのは分かる。
そしてPSWの実習は人間性が大きく問われることになる。
でも、精神障害を持っていることを無視すると私の特性の多くは封じられてしまう。

問題は、私の「自己覚知」が及んでいないところにあるはずだ。
でも、たぶん指導者側も、専門家であるゆえのバイアスがある気がする。
どんなバイアスかいまだに分からないのが私が悩む原因のひとつだと思う。

素直な意見が書けない実習日誌はしんどい。
実習前には外部の意見が職員に気づきをもたらすので喜ばしいと言ってたけど、結構指導者は固い。

学ぶ立場である以上、従うのが当然なのだろう。
まだ、資格にたどり着くまで大きな山がいくつもある。
地図はほとんどない。

目の前の藪を伐採しながら進むしかない。
(測量士時代を思い出してみたり。)

苦しい日々はまだ続きそうです。

2 comments

  1. りんだ says:

    2008年ですか。私より2年先輩ですね。今はなんの仕事をされているのでしょう。私は回り道してやっとこPSW2年目です。当事者性は私のモチベーションであり弱点です。それ以上でも以下でもありません。ジレンマはありますが、支援者と当事者どちらも観察しています。人間を見てるだけなので、自分で自分のコツをつかんだら、その後はうまくいっています。志や理想がないと言われればその通りです。衣食住、喜び、そしてお金。その辺を求めるのに他人の思い入れは迷惑なんじゃないかなと思っています。今のところですけどね。

  2. あさ says:

    りんださん
    コメントありがとうございます。
    今は・・・2018年3月現在、自営業です。
    資格は他にもありまして、それを生かした仕事と、web関連の仕事とをしております。
    昨年はPSWもやっていましたが、関わった事業所自体が閉鎖という憂き目に・・・。

    さて、当事者性につきまして、

    >私のモチベーションであり弱点です。それ以上でも以下でもありません。

    とのことですが、なかなか割り切れるものではありません。

    >ジレンマはありますが、支援者と当事者どちらも観察しています。

    観察するということは、観察者としての自分が被観察者を見るということで、当事者性のバイアスが避けられません。
    もっとも、健常者にはそれのバイアスがあるはずですが・・・。

    >人間を見てるだけなので、自分で自分のコツをつかんだら、その後はうまくいっています。

    人間を見る、社会を見るに及んで、人間を見ているのはあくまでも「自分」という存在であると思います。社会構成主義とか持ち出すまでもなく、自分の世界における他の人間を解釈し、理解しているということです。
    コツというのもどこからどこまで至るコツなのかわかりませんが、自己覚知と絡む何かではないかと推察いたします。

    >志や理想がないと言われればその通りです。衣食住、喜び、そしてお金。その辺を求めるのに他人の思い入れは迷惑なんじゃないかなと思っています。

    他人の思い入れが迷惑なケースもあるでしょう。しかし、思い入れなくしては前に進まないケースもあるかと。
    どうしてかといえば、支援者としての立場であるとはいえ、クライアントと対峙するのは人間としての自分です。過剰ではいけないのですが、排除することはできないのではないかとも思われます。クライアントに対する思い入れというより、自分や、所属する組織、同僚、あるいは、社会に対する思い入れ、つまり「自分」から見た環境把握能力、対人理解(?)能力に関わることでありまして、当事者としてのフィルタは有効であるとも邪魔であるとも言えるものだと思います。

    >2年先輩ですね。
    >やっとこPSW2年目です。
    >今のところですけどね。

    PSWと言っても様々な職があり、一つにくくるのは難しいのですが、様々な経験をなさってきたと推察いたします。
    ドライでなければ潰れることが多い仕事です。理不尽も多かろうと思います。

    >衣食住、喜び、そしてお金。

    生活を成り立たせるものとしての要素ではあります。
    私は、精神疾患のみならず、癌を経験しましたのですが、生死にかかわる決定をする時、単純に生活者としての自分とは異なる側面が出てくることを実感いたしました。この思い入れも多分支援者としては邪魔になるのだろうと思います。が、しかし、「人間」としての存在であることは、自分から切り離せないため、クライアントの実存性を問われるような局面にて、こちらの奥深くまで食い込まれてくるものであろうと思いますし、一筋縄ではいかないものと思っております。

    これから、特に高齢化したクライアントのQOLを問われたりする際に倫理的問題に直面し、多数の関係者の利害が絡み合い非常に複雑な事態がまねかれるケースが頻出するのではないかと思います。それこそ健常者でも困難に襲われるケースですが。果たして、その時に割り切って対処できるものなのか?

    私、法務を扱う仕事も実は守備範囲にしております。
    ガッチガチに見えつつ、役所の裁量などに恣意性も感じつつ・・・。
    これから当事者対応のみならずソーシャルアクションを求められる場合、自分の立場を固めないといけない場面が出てくると思います。

    そんな時、当事者PSWというのはどういう立場を取るべきなのか?(当事者という言葉は余計かもしれませんが。)
    他人でも自分でもない何かがあるのか?そんなものはないのか。
    そもそも思い入れは必要か否か、ひたすら考え続けないといけないことだと思います。

    人生思い通りにはいかないものです。また、思いもうつろいます。
    アクシデント満載ですが、それをどう料理していくのか。
    疲れる毎日ですが、目の前のことをやっつけつつ、回り道をしながら、どこかへ辿り着けるのか?

    すみません。最近の私の考えてることが当時とはずれてきているため見当違いのレスになったかと思います。
    何かのご参考になれば幸いです。私の屍を乗り越えて進んでいってください。邪魔でしょうけれど(笑)

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