春先の不健康と不運とマーフィーの法則

暖かくなってきたかなと思ったら風邪ひくし、
木々に花が咲き始めたらデジカメは壊れるし、
新居住地は一気には決まらないしでぱっとしない。

風邪は睡眠をとれば治るだろうと見込んで放置。
デジカメは電気屋行って適当なの見繕ってこよう。
しかし、風邪が治るまではあまり外出したくない。
筋肉痛も出てきてるし、花粉症とあいまって鼻炎はひどいし(慣れてるけど)。

新居候補は絞っては見た(下図)。築25年。現物を見て決めたいが、
見て良し悪しが分かるほど目は肥えていない。
何回も足を運ぶわけにもいかないので、ある程度賭けである。

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そんななか町内会の資料を作る。
あわてることはないのだが、OOoのwriterの調子がいまひとつ。
Office2000を急場しのぎに使っている。

Chromeもコピペ時にカーソルがへんな挙動をする。
ブログもテーマ変えたら崩れたページがあってどう直そうか思案中。

こないだは車を脱輪させたばかりだし。
半分居眠り状態だったのか?
免許証返納ものだな・・・。

頭が部分的にのみ稼動していることがたまにある。
それでたいていのことはこなしているのがたちが悪い。
記憶が飛んでいるとたいそう気持ちが悪いが、
もともと記憶力はそんなに良くないのでなんともかんとも・・・。

しかし、やることなすこと歯車がかみ合わないと言うか・・・。

春だからなのだろうか?
きっとそうだ、そうにちがいない。
致命的なところまで行かないうちに調子を戻さねば。
いや、夏に早めに来てもらわねばならない。

マーフィーの法則が発動してるんだな・・・。
当然、あっちのほうのマーフィーの法則だけど。
・・・ということは、今年は夏が来るのが遅れるのか?

統合失調症の「病識が無い」ってのはとても恐い。
自分が気づかぬままになんかしらやらかしてしまうわけで・・・。
今回は今までと様相が若干違ってはいる。
でも、突っ切っていかないと。

そんなことを考えるとき、人生は究極的には賭けなのだと思いつつ、
マーフィーの法則を思い出し、背筋が寒くなるのでした。

15 comments

  1. m.takeda says:

    おはようございます。

    あと「ハロー効果」なんかもあるし・・・。

    などと認知バイアスを闇雲に拡大させていくのはある意味愚かであり。

    マーフィーの法則なりハロー効果なりの蓋然性の確率が相当程度高いものならば、今頃社会はもっと良くなっているはずだと思いますが。もし現在社会が悪い状態ならば、民衆が持つ認知はよほど醜悪ってことなんですかね?

  2. あさ says:

    >m.takeda さん

    おはようございます。

    認知バイアスも人間が進化の過程で獲得してきたものだからほどほどならば有用なものなのでしょう。

    世の中理屈どおりにはいかないってだけの話かもしれません。
    もしくは理屈で考えるよりコストの低い思考決定方法として役に立ってるのかなとも思います。

    >現在社会が悪い状態ならば、民衆が持つ認知はよほど醜悪ってことなんですかね?

    生きづらい世の中ではありますが、悪い方法と良い方法ががあれば悪いほうを選ぶと言うマーフィーの法則からすると現状で上出来なんじゃないでしょうか?

  3. m.takeda says:

    >悪い方法と良い方法ががあれば悪いほうを選ぶと言うマーフィーの法則からすると現状で上出来なんじゃないでしょうか?

    ん?これって資本主義経済の社会に住む人間が何かの意思決定をする際の理論に矛盾しませんか?

    すなわち、契約の自由及びその根拠となる自由権は公共の福祉に反しない限り私法上自由であるとか、何か物を買う際に人間はその人にとっての予算線と無差別曲線の接点にあるものを選ぶとか。

    つまり、何らかの「制約」を受けるものの、人間とは「欲しいもの」あるいは「良いもの」を選択しようとするのであって、計画経済が敗北した原因は、もっぱらこの人間の本能に反していたからだと思うのですが。

    マーフィーの法則を詳しく知らないので、論点がずれていたらごめんなさい。

  4. m.takeda says:

    こんにちは。

    なんかまたRSSが拾わなくなってますね?

    あのリンク先を読んでからハロー効果のコメントをした訳なのですが、同じマーフィーの法則と呼ばれるものでも、
    1)”Anything that can go wrong will go wrong.” と、
    2)”The unexpected happens, and you’d better prepare (be ready) for it.” とでは、
    意味論的に内包されていることがまったく異なりますよね?こういう事象に当たった場合、両者を区別できるかできないかがいわゆるクリティカル・シンキングな訳で、それができない人はいとも簡単に「力動精神医学としての誘導自己暗示」にひっかかると思いますよ。

    こういうのが「技術者のつぼ」なのだとしたら、私は技術者という人種を軽蔑します。

  5. あさ says:

    >m.takeda さん

    RSS直りましたでしょうか?
    リンク先でも批判があるということが紹介されていますね。

    >同様な観点からの批判として、桔梗清は著書で「力動精神医学としての誘導自己暗示(療法)」を紹介している。

    私はこの方の著書は未読なので詳しくは分かりませんが・・・。

    技術者がこういうのに共感するのはフェイルセーフ設計やフールプルーフ設計などの局面において困難を感じているからだと思います。

    複雑化する技術に対して、人間としての技術者の能力に限界を認める、あるいは技術の使用者へ過度の期待をしてはいけないと言うことを皮肉っぽく表現しているのだと思います。

    軽蔑までしなくても・・・と思いますが。

  6. m.takeda says:

    RSS直りました。

    >軽蔑までしなくても・・・と思いますが。

    確かに。

    まあ、私が思ったのは、人間の成す営みはすべてにおいて限界を伴うのに、技術者が自分たちだけはその限界をもジョークでコントロールできると云わば特権意識を持っているかようで、何となくイラッとした。

    ごめんなさいね。

  7. m.takeda says:

    イラッとしたら打ち損じた(笑)。

    ×特権意識を持っているかようで→○特権意識を持っているかのようで

  8. あさ says:

    >m.takeda さん

    その限界のあることを常に自覚するためにあのジョーク群があるのだと思います。慎重に慎重を重ねたプロジェクトが、一つのミスで崩壊するような局面で、人為的ミスを根絶できないということを、もっというとミスを犯したときは悪い方向に事態は進行する可能性が大きいことを考慮しなければならないということを自戒をこめて言っているんだと思います。

    特権意識を持っているのではなくて、むしろ反対で、自分たちを卑下しているのでははないかと私には思われます。

    どちらにせよ、ひとをくった言説の数々ではあります(笑)

  9. m.takeda says:

    >特権意識を持っているのではなくて、むしろ反対で、自分たちを卑下しているのではないかと私には思われます。

    そうなのですが、その自分たちを卑下することによって言いたいことを表現する行為って、結局特権意識の裏返しだと思いませんか?

    そう言ってしまうと、何が表で、何が裏で・・・という果てしない議論になってしまうので止めますが、そのある種のナルシシズムって、(病気になる前ですが、)進学校に居た時のあの感覚だと経験的に解るので、何だか非常に気持ち悪いんですよねぇ。でも、これもまた自分のナルシシズムの裏返しであるところのコンプレックスから、そのようなナルシシズムを持つ技術者のことを「軽蔑する」と言ってしまったんだと思います。

  10. あさ says:

    >m.takeda さん

    >特権意識の裏返し

    確かにそんなにおいがしないことも無いですね。

    でも、航空機や原子炉等の超絶に複雑なものを扱う人間たちは日頃から極限の信頼性を求めて闘っている訳で、その自負の裏返しなのかなとも思います。

    ナルシシズムと自負心は表裏でもありますかね?
    (正確には違うのだろうけれど・・・。)

  11. m.takeda says:

    >ナルシシズムと自負心は表裏でもありますかね?
    (正確には違うのだろうけれど・・・。)

    え~と、これはまったく個人的な経験からそう言っているだけなんですが、すなわちナルシシズムに裏打ちされた高校時代を謳歌した人間が、この病気になったその後の人生において、坂を転げ落ちてついに世の中にとって無価値な人間になってしまった現在、例えばかつての同期、先輩、後輩とは、もはや同じ土俵の上で付き合う事は出来ない・・・。そこにある種のコンプレックスを感じているのだと思うのですが。

  12. あさ says:

    >m.takeda さん

    なんか夜通し語り合ってしまいそうな勢いですが・・・。

    彼らにはわからないことが我々にはわかると言う事は言えませんかね?
    逆もまた真なりでこちらも彼らをわからない。

    彼らの土俵に我々は上がれないけれど、逆に、
    我々の土俵に彼らは上がれないのではないのでしょうか?

    ただ、社会的に我々は不遇な立場に置かれているのは確かですが。

    詭弁スレスレですが、ある程度は真実でしょう。

    我々にもなんか役割があるんじゃないかと思ったり。
    そもそも役割と言う概念のおおもとは何なのか?

    精神障害ってのは人間が障碍を負っていると言えるけど、社会との関係で障碍の大きな部分が生じるわけで、精神障碍者の暮らしやすい社会は健常者にとっても暮らしやすい社会であり、そんな社会を作る営みを行うことを我々は課せられている…。炭鉱のカナリアじゃないけれど。

    ってなことを言い出すとなんか白々しくなるけれど、人の暮らしや生活が多様化して各種のマイノリティが人口の多くを占めるようになった時、マイノリティとしての社会との折り合い方を先駆的に営んでるのが我々なのではないかと思います。

    みんながみんな世界にひとつのオンリーワンなんて言い出したら、混乱は必至。そこを折り合いを付けていく技術的なものは我々が開発するのではないかと思います。

    見えない障碍である精神障碍だからこそ、一般人への敷衍が可能なマイノリティとしてのコミュニケーションのあり方などが開発できる・・・とか、私の妄想ですけどね。

    社会に暮らす人のほとんどがマイノリティ化した社会と言うのを想像したりするわけですよ。

    タネを明かすと、私は中島義道氏の著作に影響されてるんですけどね。←蛇足
     
     
    いったい自分は何を語りだしてしまったのだろう・・・?(笑)

  13. m.takeda says:

    >私は中島義道氏の著作に影響されてるんですけどね。

    あ~、私はその方が公に批判されている方に習ったので歩み寄りは難しいかも知れません(笑)。

    しかしながら、
    >みんながみんな世界にひとつのオンリーワンなんて言い出したら、混乱は必至。

    ということは私の恩師も仰っていたので、彼らは彼らなりに、われわれが知らない所で、ぶつかり合いながらも共通する思想を持ち合わせてるのかもしれません。

    ところで上述の精神障害者の存在理由?について。概念としてはある種の理想を述べられてると思いますよ。でもこの国の人は「変わっている」事を個性と捉えず、「変化する」事を恐れる人たちですよね?そこに「変化を希求する」われわれとの間で社会通念の土台を共有できない限り、社会はあささんが述べられた方向に振れないと思うんですよ。この国は60年かけてマイノリティを大統領に選出できた国とは異なる。

    今、社会を構成するコミュニティはどんどん保護的になってきて、隣人を信頼せず、住民はむしろマイノリティを排除したい方向に進んでます。われわれが良しとする理想とは逆に進んでるんです。その中で理想を具現化するのはもはや不可能に近い。少なくとも私自身、障害を逆手にとって行動を起こすアイデアも無ければ余力も無い。結局、障害者たるものおとなしく静かに何もしないことが「セカンド・ベスト」な生き方に帰結してしまうと思うんですよ。

  14. あさ says:

    >m.takeda さん

    >でもこの国の人は「変わっている」事を個性と捉えず、「変化する」事を恐れる人たちですよね?

    お笑い芸人でも3の倍数でアホになれても、精神障碍者にはなれないですからね。あのネタあまり好きじゃないけど。現状、「変わっている」ことを認める前に一見して「消費」しているような印象が。「変わっている人」と実生活とは切り離されているのでしょうか。

    >結局、障害者たるものおとなしく静かに何もしないことが「セカンド・ベスト」な生き方に帰結してしまうと思うんですよ。

    そしてそれが障碍者自立支援法等の最近の施策によってぶち壊されていくというわけですね。

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