本日の面談にて・・・

就業・生活支援センターにて就職について相談をしてきました。

せっかく資格を取ったので福祉方面の仕事をしてみようということにしました。

まず、求人はこれからつてをたどってくださるようでした。

その前に今まで私は精神障害主体の事業所にいたわけですが、
知的障害の方に対する仕事があるらしいので、そちらにも対応できるといいのでは?
・・・ということで、このセンターでの就労前の訓練をされている方々(知的・精神混合)の
指導をするスタッフ側のお手伝いでボランティアをすることになりました。

本来なら訓練を受ける側なんでしょうけれど・・・。

来週の月曜日からしばらく通ってみます。

今までの事業所とはかなり毛色が違います。
作業している現場はまだ見ていないのですが、やってることは軽作業です。

自立支援法とは別の財源で動いているらしく、そのあたり興味しんしんです。

自分が使い物になるのか確かめてきたいと思います。
失敗してもいいよとおっしゃってくださいますので、
胸を借りて、体当たりしてみようと思います。

利用者ともスタッフとも言い切れない微妙なところですが、
そこが私の長所であり短所であると思って、よく考えながら動いてみようと思います。


追記
でもね、自分の障碍を利用者にオープンにするのは得策ではないみたい。
スタッフはスタッフとしての責任を果たす。障碍関係なしに。
ボランティアってのも微妙なんだけれども、就職のために勉強ってことになります。
そんな感じで、うそはついてない状態を保っての行動になります。

でも・・・いざとなったら当事者カードを切ることになるのか?
(逃げに使うんじゃなくて、共感を示すのには有効だと思うのだけれど・・・)

CILという方向性も視野に入ってきています。
こちらも独特の組織だと思うので、慎重に考えたいです。

8 comments

  1. says:

    こんばんは。
    いつか訊いてみようと思っていたのですが、あささんにとっての「当事者カードを切る」利点とは何ですか?共感性を示すために「当事者カードを切る」ということは、当事者性を開示しないとクライエントに共感できない、ということなのでしょうか。カードを切った後、「当事者なのに、共感できないんですね」と言われたらどうしますか。カードを切る前より双方の状態が悪くなるような気がします。

    …自分は開示すべきではない派なので、ちょっと気になりました。
    当時者であることを開示するメリットよりもデメリットの方が多いと自分は思います。
    (これは、自分が精神科の職員、クライエントの立ち位置ニ方向から思うことです)
    そのデメリットはクライエントに大きなダメージを与えることになりますよ。

    自分の担当者が当事者だとクライエントとしては混乱します(当事者グループやピアはまた別です)。同じ病気だから、とか精神科に通院している、と言ってもそれは、クライエントの立ち位置に立ったことにならないと考えます。むしろ、クライエントは「この担当者は他人の支援をする余裕があるのか」とか「これを言ったら具合が悪くなるのではないか」とか「自分の為の安定した相談時間は確保されるのか」など様々な事を考えます。もっと負の感情が起これば、「何故同じカテゴリに属すのに自分は上手くいかなくて目の前の相手は上手く行っているのか」という劣等感を煽ります。これらの処理をするのは難しいと自分は思うのです。

    そもそも、同じ病気であっても、皆経過も病状も違うのであり、そのことによって特別に共感性が上がる、ということは少ないのでは、と思います。当事者の強みは利用できる制度や手続きの仕方について、当事者ではない支援者よりも詳しい、などが主であると思います。それは自分が当事者である事をあえて開示しなくてもスキルとして役立てる事はできるのでは、と考えます。

    職場の同僚に開示するのもあまり良いと思えません。実際に良い結果を見たことが自分は無いからです。保護的就労は別です。一般就労においては、マイナスにしかならないと思います。プラスになるとしたらそれは何なのでしょう…。

    長々と書きましたが、自分の中では気になる話題なのであささんの考えを知りたいです。

  2. あさ says:

    >雨 さん

    こんばんは。

    私は単純に当事者のことは当事者がよくわかるというあたりから出発しています。

    当然、当事者でなくとも共感し、理解することはできるでしょう。

    ただ、統合失調症に限定して考えるに、陰性症状の不快さや、陽性症状による自分の周りの世界の変容、医師に言葉では伝えられないもどかしさ、支援者が良かれと思ってすることのうっとうしいこと、入院時の生活の苦しさ・・・など経験として、クライエントと類似した経験から共感することがあるわけです。そこを語る言葉を持った当事者もいらっしゃいますが、陰性症状が主体となっているときは人と話すのもつらい時期があるわけで、そこへアプローチするために自分の経験が役に立つのではないかと思います。

    経過や病状の違いは確かにあるのは認めます。厳密に理解することは無理でしょう。でも、八方ふさがりな自分を感じた経験をもとに、健常者の「目の前の問題を処理する」というレベルでの対応とは異なったものが提供できるのではないかと思っています。(たとえばそれは何かといえば、医師を信頼できない感情を殺して治療を受け続けなければいけない時に、転院を勧めるとすれば、それにあたって自分の経験上それが悪いことではないと納得させるような作業とか。当然それが良いこととは限らないわけですが。)

    雨さんの懸念することはよくわかります。
    でも、その懸念は当事者でない支援者にも言えることなのではないでしょうか?人は他人を完全に理解することはできない以上、共感も理解も限界があります。

    治療(援助)契約関係上、自己の病歴を開示したからといって契約上何が変わるというものではありません。
    負の感情の処理も必要でしょう。でも、それは私が当事者でなくとも発生するものだと思います。

    ・・・と、頭で考えるのですが、実際のところ、精神病と診断されて投薬や入院で苦しんだことの無い人間に法律や制度のみを振りかざして右から左へ処理されたくはないという感情に近い部分で、当事者ワーカーの存在を(私が)欲しているというところがあります。

    限界はあるでしょう。だからカードの一枚にすぎないわけですが。

    逆に聞きますが、障害を持っているという事実は動かせないとして、どこまでもクローズドでやっていけると思われますか?デメリットがあるとしても、自分の障害は治らないですし、オープンにしておくことで最悪の事態を回避することができるとも考えられないでしょうか?

    そして、クローズドでしか就業できないとしたら、障害者雇用というものは瓦解すると思うのですが。

    雨さんの理屈でいくと医療福祉分野には、あるいはクリティカルな業務には障害者は就いてはいけないという欠格条項の肯定につながると思うのですが・・・。一般就労で障害がマイナスにしかならないのは当然です。だから障害なのですから。そこを逆説的に切り返すのが障害者である自分の開示によって生じる特性の利用になると思います。

    肯定否定両面から語ることのできる話題ではありますので、正解はないと思いますが、「私にできること」をやるという中で考えた時に当事者であることを活用する場面もあるのではないかと思うのです。
     
     
     
    障害者同士でも共感し合えないことは山ほどあります。
    でも、当事者同士であることが生きてくる場面を想定してカードのうちの一つとの表現になります。ゲームじゃないんだから不穏当な表現ですが。

    雨さんがblogでこだわってらっしゃる「当事者にはPSWにはなれない」という命題にかかわることなのでしょう?簡単に結論は出ないと思います。

    私が思うのは、PSWはオールマイティーではないということと、健常者だってオールマイティーではないこと、障害者もオールマイティーではないけれど、なんで障害者がオールマイティーでないことばかりが問題になってしまうのかという疑問です。

    雨さんの悩みに私が共感できるのか?という問いも裏に含まれてると察しているのですがいかがですか?

    まとまりませんが、思いつくまま書いてみました。
    まだまだ根っこは深いと思うのでじっくり考えたいと思います。お返事いただけると幸いです。


    追記

    読み返してみると、雨さんの疑問には答えを提示できてませんね。
    雨さんのblogから察するにご自身の切実な悩みから生じた疑問だと思うので、しばらく頭の中で考えてみたいとおもいます。


    さらに追記

    自分は障害から逃れることはできない。
    障害を受容することと関係があるのだと思えてきました。


    もう一点追記

    PSW取得にあたって記事を書いていくうちに、張っている広告に出身校の広告が表示されるようになりました。しかし、ある記事で出身校が明らかになることを書いたら、その出身校の広告は一切表示されなくなりました。

    そこから学校側では当事者PSWはあまり好ましいとは考えていないのだと思います。
    私の妄想かもしれませんが。参考まで。

  3. says:

    自分は、当事者であることを敢えてクライエントに開示するメリットがあるのか、ということを知りたいのです。

    当事者だから共感度がある部分やアプローチ出来る部分があるとして、それは開示しなければ出来ないものなのでしょうか。開示することはどのような意味を持ちますか。「自分もあなたと同じ病気だor精神科に通っている」と伝える事で何か変化するのか疑問です。

    >当事者ワーカーの存在
    これは「当事者あることを開示する当事者ワーカー」が欲しい、と言う意味で捉えれば良いのですか。そうであるならば、開示する当事者ワーカーと非開示の当事者ワーカーは何が違うのでしょう。

    >治療契約関係上の問題
    これは大きく変わると思います。契約内容が、ではなく関係性が。統合失調症のクライエントには良いのかもしれませんが、では他の疾患のクライエントには意味があるのでしょうか。結果的に良くなるのか悪くなるのかはクライエントとの関係性によると思いますが、悪くなる可能性のある行動をするべきではないでしょう。開示した事で起こるクライエントの負の感情や混乱の責任は援助者側にあるはずです。治療者の隠れ身の問題にも抵触すると思います。

    >クローズドの問題
    障害者雇用は、融通が聞く代わりに稼げない、ということです。自分の不利な点を開示する事は意味があると思えません(最小限すべきところもありますが、最初からフルオープンなのは人事上は印象値が悪いです。一般企業の障害者雇用にしても障害の程度が軽い人を採用します。応募者は何人も来る訳ですから)。何が出来るのか、より、何が出来ないのか、を先に言う人を採用することは無いでしょう。オープンにする、というのはそういう危うさを持つと思います。
    自分の場合は見えている部分(杖)のことは言いますが、それ以外は言いません。それは身体の部分も精神の部分もクローズドにしています。

    >医療福祉分野に就くこと
    自分は、障害を抱える人が対人援助をするのがダメだと述べているのではなく、自分の障害を開示して援助活動をするようなスタイルを取るのがどうなのか、という論旨です。足に障害を抱えた人が杖を利用して普通に移動を可能にするのと同じように、精神に障害を抱えた人はその当時者性を開示することでその障害をカバーする、という意味なのでしょうか?

    >開示によって生じる特性の利用
    この特性が何なのかを具体的に挙げて貰えると自分には判りやすいです。自分はマイナス点しか挙げられないので、プラス点があれば知りたいです。

    >「当事者はPSWになれない」命題と自分の悩み
    これらと今回のコメントは関係無い話です。悩みを共感して欲しい訳でもありません。
    専門職として、当事者としてどういう立ち位置でクライエントに接するつもりなのか、当事者カードを切ることでクライエントにどういう影響が起きると予測しているのかをを知りたかっただけです。

    自分の病状が安定している、ということを他人に提示し続けるのはとても難しい事です。クライエント及び職場に自分の病気や障害を開示する、というのは、同時にコントロールしている、ということも示さなければいけません(勿論クローズドは人知れずそうしないといけませんが)。何故わざわざ自ら苦労する種を増やすのか、ということがとても不思議に思えたのです。途中で潰れてしまうのも、「自分は当事者」と前置くのも、クライエントに対して責任を負いきれていない気がします。

  4. あさ says:

    >雨 さん

    一度には処理し切れそうにないたくさんのご質問ありがとうございます。

    ワーカーは援助するとき「援助する・提供する」という側面ではなく、どうしようもない問題に当たった時に、共に悩む(つまり問題が解決できないわけですが)という局面が訪れることがあると思います。

    その際に、ワーカーが同病者であった場合、同じスティグマを負わされている場合、健常者のサポートでは得られない対話が展開できるのではないかと考えています。

    実体験がなければ共感ができないとは言いませんが、クライエントから見てより対等な関係に近づけるのではないかと思われます。支援者が強者、被支援者が弱者という構図が崩せないかという所を考えています。

    そんな状況で障害の開示がラポール形成に有利に働く場合を想定しています。

    クライエントとの関係性が悪くなるのは、当事者であることを開示することによるものなのでしょうか?それこそ健常者であることが関係の構築を難しくさせるとも考えられないでしょうか?このあたりは可能性の問題としての議論になってしまいますので、ケースバイケースでどちらに転ぶかはわからないと思われます。ただ、健常者であるものは当事者であるとは言えませんが、当事者は黙っていれば(そして相応の能力があれば)健常者と同等の扱いをされるというのは、雨さんの就労に対するお考えの如く、可能であり、そのぶん手持ちカードが一つ増えることになると思います。私の場合、統合失調症に限定されますが。

    治療者の隠れ身の問題には抵触しますが、MSW系のワーカーと社会復帰施設系のワーカーとの考え方の違いがどこかにあるのではないかという気がしています。作業所の職員さんが自分の生活を守るために携帯電話の番号などを絶対に教えないというように守るべき一線はあると思いますが、それをどのラインに持っていくかということとつながるような気もします。なにもかも秘密の職員さんというのもどうかと思いますし、なにもかもオープンなのも問題です。障碍の開示はどの程度の有効性があるのか・・・考えなければいけないところですが、スタッフと当事者が対等に働くという理念を掲げるとしたら障害の開示はなされても良いのではないかと思われます。(スタッフが仕事に穴をあけるのは許されないと思いますが)

    精神障害者が社会にインクルージョンされていくにあたって、オープンで社会が受け入れるのか、クローズドで社会に潜伏するのかという問題があると思います。

    あえてオープンにしなくても溶け込めればベストでしょう。
    そして、オープンにしても受け入れられる必要があると思います。
    しかし、現実的にはクローズドでないと健常者と対等に扱われないというところでしょうか?
    (私の少ない経験上から来る偏見かもしれません)

    身をもって精神障害者の社会復帰の可能性を示すことは、意味があると思うのですがいかがでしょうか?

     
    また、ご質問とズレてしまいましたが、重要な問題だと思いますので、さらに考えたいと思います。すいません。


    追記
    職業人が急に休暇をとることはご法度と、半ば常識になっていますが、それってロバスト性の低い社会であることの証明なのかなと思ったり。システム設計において安全率を考慮しないで設計されたものは危険なのですが。そのあたり、効率を追求した現在の社会はいかがなものかと・・・。

    パラダイムの転換が必要なのかな?それとも社会人として生きるということは急に休むのは甘えで、それは一切許されないものなのか?極端に言ってネジ一個欠けたら崩壊する会社?人間は機械ではないわけで、ネジが欠けても周りがフォローしちゃうんだけれど、それでいいのだろうか?

    関係ない話ですがふと思いました。

  5. says:

    論点がずれています。再度質問します。
    自分が知りたいのは、
    「当事者であることを開示することは、援助活動上クライエントにとって有益か」です。

    具体的な想定を提示して欲しいです。
    クライエントがどのような問題で詰まっている時にどのように当事者性を開示すると、どう良い方向に展開すると想定しているのですか。

    援助者とクライエントが上下・対等、というのは意味が曖昧です。援助者とクライエントの知識が同じ量で、見通す力も全く同じ、進みも同じ速度で同じ問題にぶつかって悩んでいたらそれは、援助と呼べません。何のために援助職はアセスメントとプランニングするのですか。対等と言うのはあくまで姿勢の話(押し付けたりしない等)であって、援助者はクライエントのゴールまでの道筋が遠くまで見えていなければならないと思います。そのために今何をすべきか、と考えるのが援助の基本ではないのですか。

    身を持って社会復帰の「可能性」を示すのではなく、社会復帰したという「事実」が示される方がまだクライエントは安心するのではないですか。クライエントは途中経過を示されても真似することも出来ないですよ。その方策で成功するのか判らないでしょう?(悪くなるかもしれないですし)だから、経験則の援助は危うい、と言えるのだと思います。自分で自分の人生を試行錯誤するのは良いと思いますが、クライエントを巻き込むべきではないのでは、と思います。

    >追記について
    仕事において、余程の事情がない限り「急に」休暇はとらないと思いますよ。休暇は計画的に取るものです。「急な休暇」が多い人は明らかに自己管理不良です。何故余程の事情がよく起こるのかを内省すべきです。これは病気の有無と関係ありません。

    働くことにおいて一番大事なのは決まった時間に来て決まった時間働くこと、約束した事は守ることです。これも病気の有無とは関係ありません。出来ない人は山ほど居ます。

    それに、あささんは支援職になるのでしょう?対人援助における1対1のケースワークでは替わりのワーカーが担当のクライエントの相手をすることは出来ません。つまり自分が急に休めば、その日の相談業務は全てキャンセルになります。クライエントだって時間を空けて来ている訳です。何回もそれが続けばクライエントの信頼感は当然無くなります。甘えとかいう問題ではないと思います。それが仕事における責任というものではないですか。

  6. あさ says:

    >雨 さん

    論点を外したようで申し訳ありません。

    >「当事者であることを開示することは、援助活動上クライエントにとって有益か」

    これについては一般的な回答はできないと思います。
    クライエント個人が何を求めているのか、によると思われます。(と、すると開示、非開示の是非を問う論題から外れてしまうのですが。)

    たとえば「あなたは当事者でもないのに、云々」という話が進んだ場合、来談者中心に受容的に話を聞くについて、非当事者が受容的な態度を持ち続けるとしたら、不自然さを感じるのではないのでしょうか?ある個人の体験したことと同じ体験をする人はいませんから、当事者であることを開示しても開示しなくても論理的にはメリットはないのでしょう。

    メリットのある場面として、具体的な想定を挙げるとすれば、統合失調症に限定しますが、幻覚妄想を体験し、その後で「確かに体験したことなのにそれを周囲には否定される」という体験は障害者が体験を受容されることとは対極に置かれるところだと思います。(セオリーでは肯定も否定もしない対応が推奨されるところでしょう)

    そこで、私の体験を持ち出すことができれば、人は現実でないことを体験するという経験をすることもあり、それは病気のせいなのだということを語ることができ、それは当事者としての強みであり、患者にとって初期の混乱を抑える方向でのメリットになるのではないのでしょうか?

    それで納得するかどうかはケースバイケースです病状の重さも性質も人それぞれですから、私の体験とクライエントの体験は異なるものだと主張されればそこまでです。統合失調症以外のクライエントには無力かもしれません。

    結果として、必ずしも良い方向に向かうばかりとは限りませんし、当事者体験が生きてくるのはあくまでもPSWの仕事の一部であり、他の部分で大きなデメリットがあるということは雨さんの主張が正しい気がします。

    クライエントと対等の姿勢でアセスメントとプランニングする・・・教科書ではさらっと書かれますが、日々変わっていく当事者の遠く未来を見通すことは難しいことです。逆に言うと、ワーカー側の予断が当事者の芽を潰すことも起きてきます。そして、クライエントにゴールはあるのでしょうか?(みもふたもない発言になりますが)見通すなどというのは不遜な表現ではないでしょうか?

    >身を持って社会復帰の「可能性」を示すのではなく、社会復帰したという「事実」が示される方がまだクライエントは安心するのではないですか。クライエントは途中経過を示されても真似することも出来ないですよ。その方策で成功するのか判らないでしょう?(悪くなるかもしれないですし)だから、経験則の援助は危うい、と言えるのだと思います。自分で自分の人生を試行錯誤するのは良いと思いますが、クライエントを巻き込むべきではないのでは、と思います。
     

    ここでの「可能性」と「事実」の使い分けがはっきり理解しかねます。人生における社会復帰の成功、不成功とはどの時点で決まるのでしょう?死ぬまで「可能性」の手からは逃れられないし、「事実」はいつくつがえされるかわからないものだと思います。生きている限り人は「途中経過」の状態にあるのではないのでしょうか?そこでは常に人は「可能性」としてしか自らを表せないように思います。ましてや私は統合失調症。寛解はしても治癒はしません。それでもなんとかしのいでいく「可能性」を求める姿勢をクライエントに伝えていくのもひとつの形ではないでしょうか?

    >追記について
    これは雨さんのおっしゃることが正論だと思います。

    ただし、急な休暇で(あるいは他患の都合で・・・初診患者が急に入るなど)スケジュールが狂うことは常態的に発生します。それに左右される体制は脆いと思われると申し上げる次第です。代診が多発する病院に通っていた経験上、システム的に問題があるのではないかと思ったわけです。代案を出せないので大きなことは言えませんが。

    私が自己管理が甘いのは自覚しております。今後の課題です。過去に医師には自己に対する要求水準を下げろと言われました。これは自己管理が甘くとも務まる職場を選べという意味だったということではないかと今回気付かされました。

    でも、支援職は目指しますよ。
    失敗しながら。
    クライエントを巻き込みながら。
    迷惑をかけながら。
    自信を失いながら。

    健常者もそうじゃないんですか?

    また論点を外しましたでしょうか?
    指摘をよろしくお願いいたします。

  7. says:

    お返事遅れました。
    回答ありがとうございます。

    「当事者でもないのにわからないだろう」というのは、「親になったことが無いのに」とか「性別が違うのに」、と同じような表出であるので、そこで当事者性の部分だけ「当事者である」と言っても他の部分はどうカバーするのでしょう。「××でないからわからないんだ」という投げ掛けには、××であるorないは問題ではなくて、それ以前のことがわかっていないからそういう言葉を向けられるのだと思います。だから「当事者でもないのに云々」の問いの返答に「自分は当事者だから」と言ってもそれはもっと前の段階で手落ちがあるのであり、話が展開しないように思います。

    自分は統合失調症の幻覚などの体験はないですが、対応は日常的にします。否定も肯定もしない、というあいまいな感じではないです(現実側には引っ張りますが、話題を打ち切るように変えたりはしないです)。というか、家族などはともかくとして、ちゃんとした援助者は頭から幻覚妄想を否定したりしないのでは…。

    >アセスメント
    何か物事を為すためにはゴール(目標設定)は必要ですし、希望の数だけゴールはあると思います。ひとつの希望が出たらそれをひとまずのゴールとして、それに到達するために必要なことを細かく切って目標設定するのが基本ではないのでしょうか。それが終わったら次、というように。先が見えていないと後押しできないと思います。見通しと言うと大きいのかもしれませんが、見えている世界の広さがクライエントと全く同じでは援助者の意味が無いと思います。クライエントよりも広く遠くが見えるべきでしょう。そうでなければクライエントが詰まった時、対処が出来ないと思います。

    >社会復帰
    クライエントの望む社会復帰が何なのか、によると思います。あささんで例えるならば、社会復帰が「一人で暮らす」のクライエントが来たら、あささんは「引越しをした」という事実については体験を提示できるけれど、「一人暮らしが長く続けられる」についてはまだ途中だと思います。「仕事に就きたい」というクライエントが来てもまだ途中だと思います。途中経過を提示しても「でも一人暮らしが一年も経っていない」「でも結局まだ仕事に就けていない」と切り替えされたらその先はどうやって話を展開するのですか?自分の体験を入れるだけ自分の首が締まるように思います。あささん自身の事を問われて、どんどん答えていったらあささんの「治療者の隠れ身」はどうなるんでしょうか。

    精神科領域のクライエントでケースが上手くいかなければクライエントは最悪の場合死にますよ。それは常に念頭に置くべきだと思います。だから失敗はするとしても最小限にするために努力すべきですし、自己管理はそれなりに出来ていないと苦しいのではないかと思います。

  8. あさ says:

    >雨 さん

    とことんつきあっていただいてうれしく思います。
    今回も論点がずれると思われますが、ご勘弁を。
     
     
    >「当事者でもないのにわからないだろう」
    これなんですが、とことん突き詰めると「他人」のことは「私」にはわからないというところに行きついてしまいます。ページの方で書いた「死」がその個人でなければ分からないことなのに、一般的にはわかったことのように語られるという疑問がその極論です。

    手落ちがあるとすれば、もう一つ、完全なる手落ちがあるわけです。どこかで妥協して日々の生活を送るわけですが、その妥協点のとらえ方の違いが私と雨さんの間にはあるように感じました。

    >統合失調症の幻覚などの体験
    幻覚妄想を否定(も肯定も)されなかったのは私の経験によるものです。幻覚妄想はある種の問いを投げかけるとその内容が破たんする場合があります。そこから気付いていけるか、別の妄想に切り替わるか・・・いろいろあるでしょうが、私は初診のときの主治医に質問によって妄想を封じられました。

    「それはあなたがそう思っているだけでしょう?」

    という問いだったと記憶しています。これは自我の領域を問う質問で、統合失調症の患者側が考える力が残っている場合、有効な問いかけの一つだと思います。一発で病識を持たせられる可能性もあるかもしれません。でも、その代償として、「自己」と「他者」が隔絶されていることを知ることになるわけです。

    >アセスメント
    世界の広さについては、一個人の能力で抱え切れるものではありません。そこを乗り切るためにアセスメントを行い、目星をつけていく作業は確かに重要だと思います。

    しかし、世界の見え方は個人によって違うわけで、そこで対話などで理解をしようとする必要があるのですが、やはり私が戻ってくるのは「他人」のこころはわからないというところです。ワーカーは想像力を持てとも言われますが、クライエントの本心を知ることは難しい、いや、本質的には知ることはできないのではないかと思います。

    クライエントの世界で詰まったとき、援助者の世界の見方で援助を行うということになるのですが・・・。異なった世界を見ているのに、支援のメニューを見せて、インフォームドチョイス・・・となるのは何か危ういものを感じます。常にかゆい所に手が届く支援をしろというのは無茶ではありますが・・・。

    「クライエントより見えている世界が広い」というのはそれゆえにクライエントの希望とは異なった、パターナリズムに近い対応を生み出す危険性はないでしょうか?

    社会学(民俗学?)で、未開の民族を調査に学者たちが現地に乗り込んだら、そのため(文明の侵入)に民族の生活が一変してしまい、研究の名目で文化が破壊されたという話があります。

    「当事者主体」というのは、それに似ているわけで、ワーカーの手持ちの情報や知識、技術によって介入し、しかし、当事者への過剰な侵襲は避けなければいけないと思います。そんな状況下で、私の自らの障害体験が生きてくる可能性があるのではないかと思ったりします。

    いや、オープンにして面接した場合「はい、おなじです」で終わってしまう危険性もあるわけでそれはデメリットですが・・・。

    >途中経過を提示しても「でも一人暮らしが一年も経っていない」「でも結局まだ仕事に就けていない」と切り替えされたらその先はどうやって話を展開するのですか?自分の体験を入れるだけ自分の首が締まるように思います。

    これについては死ぬまで「途中経過」なわけです。

    よって、自己の病の体験からはクライエントが突き詰めた望みを訴えた場合に終わりまでを提示できないということは理解しました。

    では、代わりに提供するのは、本から得た知識ですか?よそのケースカンファレンスで得た情報の応用でしょうか?あるいは数々の自らのワーカーとしての体験でしょうか?EBMに見られるように有効で、科学的で、ある程度結果が見えていて、確実性もあるのでしょう。
    でも、それを生活全般に適用するってのは漠然とではありますが、危険を感じるのですが。
     
     

    クライエントへの介入は、逆にそして同時にクライエントが援助者側に介入するプロセスでもあると思います。「治療者の隠れ身」はそのあたりを考えて援助活動が円滑に行われるための原則だと私は理解しています。

     
     

    また、「途中経過」を一緒に歩んでいくという姿勢も大切だと思います。ケースワーカーは相談室でカウンセリングをしているだけではないわけです。

    たとえば草の根作業所を立ち上げる時を考えるとわかりやすいと思います、メンバーさんはまさに「途中経過」をワーカーと共に体験し、完全ではないワーカーを目の当たりにし、共に目標に達成できたりできなかったりして、成功と挫折を繰り返すわけです。そうして幾多の作業所は立ち上がったわけです。
     
     

    回復はクライエントと援助者の共同作業ではないかと思います。(ヘルパーセラピー原則ともちょっと違う気がしますが)それが「社会復帰」のひとつの形でもあるかと思います。物語を共有する場面で、私は自らの障碍体験をオープンにすることがあってもおかしくはないと思います。

    理想論ではあると思いますが、雨さんの描くワーカー像にクライエントを計算して操作しようとするような臭いを感じてしまったのですが、これは私が自分で招いてしまった臭いなのでしょうか?(つまり極論を言われないと分からない私の鈍さのことです)
     
     

    ケースがうまくいかなければ当然、クライエントは死にます。私だっていつ死んでやろうかと考え続けています。それゆえに一人で大阪に出てくるようなことができたわけなのですが、それは言うと師匠に怒られちゃうのでここだけの話にして、では、ケースを必ずうまく生かせる方法があるのかというと、前もってアセスメントしてもなかなかわからないわけです。

    勉強すれば、もしくは経験を積めば、すべてのケースに対応できるかっていうとそんなことはないだろうとも思います。面接の構造化もほどほどにしないと苦しくなる場面が出てくるんじゃないかと根拠なく思ったりします。インフォーマルな場面での面接ってやつの有効性の話になるのでしょうか?

    勉強不足の私には何も言えませんが。

    自己管理については、できるにこしたことはないけれど、統合失調症の不調時のいわゆる「体調が悪い」ってやつを世間に知らしめる方法はないものかと悩ましく思います。

    高校の時にある教師が「気分が悪いので早退します」と申告した生徒を「『気分』が悪いとは何事だ!」と叱り飛ばしたのをみたことがあります。それから類推するに、精神的不調というものは他人には理解できないものだとの印象を強く持っています。(それが私の受診が遅れた一因でもありました。)
     
     

    議論から大きく外れました。自己管理はあらかじめ何が起きるかわかっていればできるのでしょうが、そうはいかないのが常であります。イレギュラーな事態に対して対応できる自己管理能力というのは必要になるのでしょうが、私の計画性と実行能力というのは、PSW国家試験の際の受験勉強についての記述がこのblogの過去にあると思うのですが・・・。あんな程度です・・・。ひどいもんですわ。

     
    でも、当事者が当事者に絡まれていく状況というのはグループワーク的でもあり、合格した今となっては、いい体験だったと思います。あれは私が当事者だったから発生した騒動だったと思います。当事者性を持ったワーカーというのはある種の方にとってはストレスのはけ口として有効なのかもしれないと思います。

    ・・・これから、「ごみ箱ワーカー」って自称しようかな・・・。

    ラポールを形成するにも、敵対するにも、停滞したところに何らかの動きを起こすのには当事者性というのは武器になるかもしれません。私の方はたまったもんじゃないでしょうが。

     * * * * * * *

    なんだかすいません。午前4時近辺は魔の時間帯で、何を書きつづるかわかったものではありません。自己管理のできないのは、気になることを放っておけない性格にも起因しています。反省材料です・・・。

    無茶なこと書いてるはずですんでツッコミお願いします・・・。←まったく自己管理できていない。


    追記

    読み返してみて・・・完全に観念奔逸してるよ・・・。

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