カテゴリー: 統合失調症

特別な通院日

今の病院の最後の通院日でした。

行ってみてびっくり、外来は大混雑。
精神科のお医者様が足りなくて、診療体制が維持できなくなっているとのことです。
多数の患者がほかの医療機関に移動するようです。
入院も受け付けなくなるようです。

そんななか、紹介状などの書類をもらってきました。
16年通った病院でした。なんかさみしいものが。

・・・で、書類を2種類もらい忘れてきました。
30日にワーカーさんのところへ取りに行ってきます。

最後まで迷惑をかけ通しでした。

転院がうまくいきますように祈っています。
わたしも、みんなも・・・。

集中力きれまくり

病気してから、根気とか集中力とか体力とかが無くなったと思う。

中学生のころは勉強を学校でやって、部活動やって、帰ってから宿題を片付けて、そのあとに学研の「ムー」を買ってきたその日のうちに読破するくらいのことができたのに。

高校生の頃は「日経サイエンス(当時はサイエンス)」や「Quark」や「科学朝日」をやっぱり買ってきたその日のうちに読破できた。文庫の小説ならものによるけど2~3日あれば読めた。ほかのこともこなしながら。

今では到底無理だ。というか、昔の自分は無茶が効いたのだなあと思う。

今日はいきなりネットショップで注文ミスをしてしまった。
ネットの1ページ分の情報を消化できていないのだから情けない。

パイプベッドの安いやつを買ったのだけれど、配送先を実家に設定していたのを失念。
いまからショップにTELして引っ越し先宛てに訂正しないと。

不注意はそれにとどまらず、他にもカーペットと布団を買ったのだけど、
配送日時の指定がちぐはぐで、このままではなにもないアパートで
まちぼうけの時間ができてしまう。

すこしシャンとしなければいかんなあと思いつつ、
病気にくわえ薬が効いているせいなんだろうなと思う。
ものごとを並行してやろうとすると、段取りを組むことができなくて困る。

お買い物でこれだけ苦戦するとは思わなかった・・・とほほです。

病院の選択基準

転入先の支援機関に医療機関の情報をもらったけれど、
あんまりたくさんあるので選ぶのに迷っていたわけですが、
とりあえず1か所選んでみました。・・・これはもう書いたな。

初診を受けてから決定か、自立支援医療のために決定しておいてから初診か?
やっぱり初診が先だろうと思われるので初めは3割負担で行くしかないのか?

転出転入のタイミングがGWと重なるのは利点であり欠点である。

初診で蹴られたら次の機関に行かねばならないのでいくつか候補を挙げといたほうがいいだろう。
が、支援機関の勧めてくる医療機関の選択基準がいまひとつわからない。
聞いてもはぐらかされて「相性ですからね」という状況にいまだ変わりがない。

もやもやしてるが、支援機関のワーカーさんがどうも不機嫌な感じを受ける。
怒ってるのかな?気のせいだな。たぶん。いそがしいんだ。

そんな気分を抱えつつ、知り合いのところへパソコンのネットワークの修理に。
暗号強度を落として回復。いまひとつ気に入らないのだが、
サポートセンターがそう言うんだから、それでいいのだろう。

大阪での暮らしについて、
先の見えなかったものが、少しずつ見えてきている。
生活の輪郭がはっきりしてきている。

喜ばしいことである。
疲れてきてるけど、なんとかなるさ。

でも、新住所から至近距離にある精神科病院を勧めないのはなぜなのかいまだわからない。
聞いてみたいところであるが、支援担当者が切れそうになっているので聞けない。

ヘタレな自分である。
季節的に1年で一番悪い時期でもある。たぶん。
不安が次から次へとやってくる。
次から次へと受け流す。
混乱しているのがこれを読んでてわかるんじゃないかと思う。

頭の活動が亢進してちょっとヤバめ。自戒せねば。


追記

結局、わかったこと。
まず、現在の医療機関に紹介状を出してもらう。
で、紹介状が出るのが4月28日なので、ここで診察を受けて薬を余裕を持たせてもらっておく。

GW中は引っ越し作業。

で、GW明けの5月7日に大阪での自立支援医療と手帳の申請を市役所でしておけば、
さかのぼって3割負担が1割になる。

5月7日以降に、新しい医療機関に紹介状をもって受診。

ということになるらしい。

あとは転出、転入届けをどうするか。GW前に転出届、GW後に転入届となるか。
健康保険の方の手続きもあるな・・・。

読みかけの本から考えた(2)

先日に引き続いて読みかけの本から。書かないと忘れてしまいそうだから。

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

p130 より

私は、精神病患者も、周囲の表情によって自分がクレージーとみられていることを知るのだ、と思う。周囲のあわれむような、やさしさを交えたまなざし”美しい”が何も内容のないことば―こういったものは、「君は今日は変だ」「君のいうことはさっぱりつかめない」といわれるよりも決定的な衝撃でありうる。彼は、何とか自分が正気であることを証明しようとする。しかし、ふだんの時には誰がわざわざ自分の正気を証明しようとするのだろうか。そしてどんな時でも証明するとなれば、論理を用い因果論を使い証拠を挙げなくてはならない。そして、これほどクレージーな印象を与えることはない。ことばによって正気であることを他人に証明する方法はおよそ実らない。この証明は他人にむかってなされると同時に自らにむかってなされる。この方は残る。そして、あるいは妄想の根となるだろう。
 おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の“妄想”をどんどん「なぜ」「それから」「それとこれとの関係は?」ときいてゆくよりずっと難しいことであるが―。

これは医者と自分の妄想について話したことのある方は実感をもってわかる文章だと思う。
自分にとって自明なことを説明し続けることはとても苦痛である。
妄想というのは妄想を抱いている者にとっては動かしようのない事実であり真実である。

最近、精神障害者の体験発表として様々な機会に体験談を話すということが行われる。何度かそういうものを見に行ったことがあるが(まだまだもっとたくさん見に行かねばと思うが)、その体験というのは病的体験のコアに触れるものではなく、社会復帰に際しての体験談であったり、生活における工夫であったりということが多いのではなかろうか。そして、そのような発表会では病的体験を語っても、あるいは話しぶりが病的になったとしても、冷やかに流され、聴衆にその体験を共有されることはない。あるいは、体験を笑い話に転化することもあろうが、それが了解されるということはなく、それゆえに病的体験なのであり妄想であるのだろう。

このあたり統合失調症について理解するのに重要な部分であると思われるのだが、実感を乗せてこれを語るというのは難しい。他者とのコミュニケーションというのは多かれ少なかれこの問題をはらんでいるはずだ。一般的に他人の経験を了解するというのはどういうことなのだろう?非統合失調症者同士での互いの理解というものは、非言語的な部分で行われるところが大きいと思う。その能力が失われた統合失調症者は途方にくれて、周囲からのメッセージを自らの文脈で理解しようとして失敗する。・・・のだと思う。

そこで、このblogを考えるのだけれど、軸としては私の体験をつづっているのであるが、本当に理解してほしいというところがまだ語りきれていない。と思っている。病気の生々しいところを語る必要があるとは思うのだが、言葉というものは難しく、かつ、人に了解される形で綴るには物語としての形を備える必要があるかとも思う。時間のあるうちに取り組みたいと思うのだけれど、今回取り上げたこの本で書かれているように困難は大きい。

今後の課題である。どうしてもやらなきゃいけないことではないので後回しになってしまうのだけれど、精神障害者に対する偏見を取り除くには、統合失調症の陽性症状を理解してもらうことは重要だと思うし、そして、それが各病者によって様々だということも含めて理解されることが必要だと思うので、なんとかしたいと思う。

統合失調症の妄想は奇怪だけど、陳腐だとも言われるらしい。そこをどう語っていくべきか。何を中心に語るのが理解を得るために必要か。いろいろ考えるべきところは多い。正気に含まれる狂気的なものも語りたいのだが・・・やはり理解はされないだろうか?

論理的ではない部分を、筋道を立てて語るというのは難しいと思う。自分の手に余るのではないかとも思うが、挑戦するには十分意味のあることではないかとも思う。

とりあえず大風呂敷は広げずに、少しずつ取り組みたいと思う。

読みかけの本から考えた

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

これを読んでいて、まだ読みかけだけど考えた。

p68 より

患者が「怠けていてはいけないから英語でもやろうと思うのですが」ということもあるが、その時も「君は怠けているのではなく治療(休養)という大仕事をしている」ことはまず前提として告げるべきだろう。改善の時に少し自他がブレーキをかけるべきなのは、下山のときとかわらなくて「『梅一輪一輪ほどのあたたかさ』かな」という告げ方が家族に一番判ってもらえる言い方であることも多いが、もう少し直接的に「良い芽が出てくると引っ張ってでも伸ばしたいのは人情かもしれませんが、それで草木はのびますか」といわねばならぬこともある。

私は精神保健福祉士を取っていく過程をリアルタイムで実況してきて、実際、合格まで来たのだけれど、周りからはどう見えているのか、今までと別角度で考えてみたりした。自分が回復を始めたころの状況でこのブログのような記事を読んだらどう考えるのだろうかと。

読み手のことを考えるというのはきりがない話であって、何を書いてもなんらかの弊害が考えられる。書き手にどこまで責任があるのかというと、ネットではネットリテラシーという考え方があって、情報の取捨選択は読み手側の責任も大きいわけだけれども、統合失調症からの回復過程から考えてそれを求めていいものかどうか迷いを感じるようになった。

潜在能力の芽を摘むことは良くない。ストレングスは最大限伸ばすべきだろう。でも、時期というものがある。休息の必要な時に焦って資格や学校に挑戦することを勧めるのは注意が必要だろう。でも、それは本人の自己決定によるものであるし、目標を持つことが生活の張りになることも確かだ。しかし、私の記事が焦りを招くことになったりはしないかと自戒をこめてよく反省すべきところだと思う。

そして、私は現在、自立へ向かっての引っ越し・就労が目標となり、それをつづってきている。

いままで、いろいろコメントをいただいてきた中で、気になっているものがやはりある。
ほとんどは素直に応援していただいているありがたいものだと解釈しているが、
私の記事に触発されたのか、何かに焦っている印象を受けるものもある。
私の自意識が過剰なためにそう思えるのだと解釈してきたのだけれど・・・。

なぜそこまで?という反応に、私自身戸惑ったりしたのだが、
彼らの焦りを私が誘発したのだろうと今は考えている。

師匠からは、私がblogにあんな記事を書く動機が分からないとは言われている。
ほとんど自己顕示欲が元ではあるのだろうが、他の何かが混じっている気もする。

精神障害者への理解が、私自身足りないのだと思う。
この本を読みながらそう思う。

しかし、このblogの読み手側にそのあたりを斟酌して読んでもらうというのは無理があるのだろうか?私の不完全さ加減はこれでもかというくらい強調してきたつもりなのだけれど。

今後も大きく方針は変えないで行こうとは思うのだけれど、読む側の想いというものがあまり返ってこないこともあり、危険なことを書いてしまうかもしれないと思う。でも、危険の向こうに目指すものがある気もする。

私が何を言いたいのかわからないと思う。
でも、そこをわかってほしいわけであり、私は私であるということを頭の隅に置いて読んでほしいし、それでいてコミュニケーションは取っていきたいとも思う。みなさんのことを信じていいですよね?

さあ、本格的に何が何だかわからなくなったところで切り上げましょうか。

 
 
大阪で師匠に言われました。「結局は本人が何を求めているかだ」と。
支援はそれに沿って行われると。

それはそれで精神障害の特性からして苦しいものなのだけれど・・・。
私だけなのだろうか?精神障害一般に拡げるべきものではないのだろうか?

私はむしろ人間全体に拡げるべき何かがあると思うのだけれど。

それが何かは今後じっくり考えます。
さあ、わけがわからない記事になりました。
わけがわからない人間が書いていることがわかればわかるわけです。