投稿者: あさ

山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。

「患者の苦痛のスクリーニング…」ってなんだ?

平成27年12月厚労省のがん対策加速化プランの一部。

実施すべき具体策→がんとの共生の③緩和ケアの中にある文言。
「患者の苦痛のスクリーニング方法の事例集の作成」

で、事例集が発表されているのだが…。

いつのまにやらスクリーニングされて、トリアージされてたのか。
わからんことはないが、そこはかとない違和感を感じるのである。

医療費は有限だしマンパワーも不足している。
だって、このスクリーニング自体、十分にやる事が出来ないわけだし。
それはこの報告書にも書いてある。

でも究極的なところ、がんの苦しみは生きる苦しみであるわけで、万人に通じてくるわけで。
スクリーニングとかトリアージってのと親和性がどのくらいあるのだろうかと思ったりもする。

緩和ケアでトリアージって、…瀕死の患者には緩和ケア打ち切るのか、そこに重点的に緩和ケア投入するのかで意味合い違うなあと。

厚生労働省はお役所だから予算との兼ね合いで物事を考えているだろうことは想像に難くなく。
費用対効果の意味でのトリアージなんだろうなと思ってしまうのですが…。

状況に応じた適切な介入を目論んでいるのだろうかなと好意的に解釈もできるのですが、
がん患者はがんの病気以前の問題を抱えているのが通常で、
そこのスクリーニングはどうなるんだろうかという疑問も。

全人的な苦痛の緩和というけれどもだったら、一般の人みんなに当てはまる苦痛みんな緩和しないといけないような。

社会全体緩和ケアしちゃった場合どうなるんだろうか?

全員がいきいきと一億総活躍社会なのか?

活躍ってなんだろう?

格差をなくすのが幸せだと感じる人がいる一方で、
人に対する優越に幸せを感じる人もいる。

活躍すればするほど乖離していくぞ。

どう収束させるんだろう。この矛盾。みんなが悟りを開けとでも言うのだろうか?

空証文に踊らされてる気がします。

もっと現実を見ないといけないのだろうけれど。
いま、ここ、で何を考え、行うのか。

難しい。極めて難しい。

禅問答の世界に突入しかねないくらいの難問です。

これが「実施すべき具体策」のひとつだってさ。・・・頭がいいのか悪いのか。机の上で作ってるなあと感じます。
お役人は頑張って滑っているなあと。

がん対策加速化っていうけれど、現場に混乱をもたらすであろうことが想像されます。
どうする気なんだろう。

作文が上手でも…ねえ。

訃報が連続する。通夜の帰りに訃報を聞く。

また会ったことない方の訃報。
知り合いの近親者。
ご近所。

やがて死んでいく存在。である自分と他人。

やんやんに大阪と静岡に分骨するよう遺言書いとけと言われた。

覚悟はしているらしい。
永眠したらねるこはそだつ故、よく育つのかもしれない。
誰が?

さて、今日のがん患者関係の勉強会に出られるかどうか。

休んでもいいかな?

訃報で悲しめない自分。を悲しく思わない自分。

他人事となると、人が死んでもなんとも思わないという現実。

でも、お悔やみに出かける。
打算的なのか、社会に適応してるのか、何なのか。

死は大きなことだけど、しょせん理解できないから、そうなるのだろうな。

不謹慎だとかそうでないとかいう話でもなく、流されていく自分。

心底、共感できていない事実。

葬儀に出席する人間、通夜に出てくる人間がどのくらい悲しんでいるのだろうか。
悲しい人もいるのだろうし悲しむ人を助ける必要もあるのだろうとアタマでわかろうとしても…。

なんか儀礼的なものに出て行く意味を見失っている。
しかし、出ていかなければ社会的に抹殺されかねない、という恐れ。
そんな人間が集まって意味あるのかなと思うんだけれども、
深く考えてもしょうがないので、
訃報を送ってきたということは来て欲しいということなのだろうと解釈。

自分にとって意味がなくても、相手、身内に死者が出たものにとって意味があるのだと。

と解するが、納得しきれないものが残る。

死というものは、自分に必ず訪れるものではあるけれど、自分の体験する死はすべて他人の死であるのだ。
悲しいのは、亡くなったことではなく、亡くなることによって周りが喪失することから生じるのだなと。

会ったことない、あるいはその人の亡くなることで自分が失うもののない人間の死で悲しみは生じない。と思われる。
悲しいのは関係の喪失によるのかなと。

だから、自殺未遂して周りを困惑させる人間は、その辺を意識的にか無意識的にか計算しているのだろうな。
リストカットもオーバードーズも、人との関係において意味がある行為ということで、
こういうのをやる人間は「生きるために」やるとよく言うけれど、関係を確かめる方法としては確実かつ効果的だけど、
「ほんとうの」人間関係を破壊するものであることを分かっていないのだろうなとの想いに至る。
一種の暴力であるということも言えるだろう。関係者に対する。

だから、そういうことをする人とは積極的に関係を断ち切る。でないとこっちのヒューズが飛ぶ。
ヒューズが焼き切れる前に、ヒューズのつながっている回路を外しておくわけだな。
自分の他人に対する感情が鈍麻してしまわないように。

今回亡くなった方の死因等は一切わからない。
そのくらいの関係ではある。

訃報を送ってきた方と自分の関係は、微妙な関係なのであるが、
仕事上の付き合いということで無下には出来ない。

悲しんでいる方を見舞うという意味で行くことになるわけだが、
本心、その方が悲しんでも…自分にとってどういう関係があるかというと、まったくもって功利的な理由で見舞うとしか言いようが無い。

亡くなった方を弔う場にそんな感じで出かけていくのは違和感がある。
でも、顔を出して来いということなのだろうな。
試されているようで極めて居心地が悪いだろうが。そこまで計算ずくで呼んでいるのだろうとは思ってはいる。

まあ、人間観察に行ってくることにする。

いつか自分が死ぬだろうが、その時はどうしてもらうかな。
関係者は少ないからあまり不安はないが。
親から距離を置いたのは正解かなとは少し思ったりする。
やんやんとかアカさまはしょうがない。どうしようもないから。
何度も死にかけて、まだ死ぬ準備ができていないことを思い知らされるのでした。

うつが自殺を引き起こす・・・ってのはよく言われるけれど、その機序の分析詳しくしたものどっかにないかな?
古典的なのは


このへんか。

キェルケゴールはちと違うと思う。

一般的に言われてるのはこんな感じか。
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
なんか、今の自分の考えてる方向の感覚とズレを感じるが…。
「パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態」とどう違うのか。

安楽死との関係や、平穏死を望んでエンディングノートに書きつけておくのとどう絡んでくるのか。
最近のトレンドのひとつでもあるのかなんなのか。
暇があった時にでも考えよう。

通院日

がんのほう。

今日の結果で今後の治療が決まるはずだけど…。

その後相談支援センターに寄ってくる。

午前中は会計ソフトの新機能の説明を受ける。

忙しい予定…。

のはず。

今日ものたのた行きますか。

明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい

という本を読んだ。

毒にも薬にもならない本だと思う。

人によっては薬になるらしい。

クスリってのは量が多けりゃ毒になるから、毒にならないってことはクスリでもないのだろう。

問題は、この本で著者が挙げている、他の本である。
勧めるのは、内村鑑三、新渡戸稲造、南原繁、家内原忠雄、吉田富三など。

これらがこの本を薬に変えるということで、この本は処方箋である。
さて、読んでみるか・・・と思うが、どこから手を付けるかねえ。
新渡戸はちょっと読んだことあるな。

あとは。。。備忘的にメモっておこう。

吉田富三はamazonで買えそうにない。からこれ。

この辺からスタートかな?

偏っているのかどうか、読んでみないとわからないけれど、なんかの足しにはなるだろう。
とりあえず、読むべき本が増えた。

つうか、教養がないのを晒しているわけだが、実務本に囲まれてて読む暇があるのかどうか。
これらから派生するものもあるだろうから読みこなせるかどうか。

とりあえず今はこいつを読み切ろう。読みかけ。
今更読んでも…という感じだけど、現代の切片のひとつかな?

さあ、暇をどう見つけるかねえ。時間は有限。
青空文庫優先かな?